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静岡連載

宗吉の音 幻の作曲家を追って(10)

◆無念の死 故郷に眠る

宗吉も眠る尾崎家の墓にお参りするめいの小池祥子さん=浜松市西区の養泉寺で

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 「尾崎君にまた赤紙が来たよ。今度は帰って来ないんじゃないか」。尾崎宗吉の師・諸井三郎が暗い顔でこぼしたのは一九四三(昭和十八)年の夏の終わりだった。

 身重の妻を残して再び中国へ渡った宗吉は、鉄道第三連隊の一員となる。連合国軍の飛行場を破壊し、南方への陸路を確保する「大陸打通作戦」に参加。四五年三月以降は中国南部の鉄道路線の補修や輸送警備に当たっていた。

 既に敗戦の色濃く、弾薬や食糧の補給も難しい。日本兵による略奪も横行していた。栄養失調に加え、行軍の疲労が重なり、病死者、餓死者が続出した。

 宗吉の死に際に接したとされる戦友が戦後、手紙で証言している。宗吉は、虫垂炎にかかり、病院とは名ばかりの民家に運び込まれたが、既に手遅れだった。麻酔をかけずに腹を切り、赤チンを塗っただけの切り口が化膿(かのう)したという。手紙には「本当に哀れでした」とある。

 四五年五月十五日。享年三十。終戦まであと三カ月だった。

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 宗吉の遺骨は、中国国内の石炭会社で働いていた兄、保次に届けられ、翌年、故郷に戻った。十五歳下の弟の骨を持ち帰った保次の気持ちはいかばかりか。保次の四女小池祥子さん(71)は「父は叔父のことを一切言わなかった。言葉に言い表せなかったんでしょう」とおもんぱかる。

 シロホン(木琴)やピアノを奏で、やがて作曲の道へ。リズミカルで明るかった宗吉の音は「愚劣だ」という戦争を経て、重苦しさをまとった。

 故郷にある養泉寺(浜松市西区舞阪町)の一画に、尾崎家の墓がある。宗吉はここで、家族とともに静かに眠っている。 =おわり

 (この連載は飯田樹与が担当しました)

 

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