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静岡連載

宗吉の音 幻の作曲家を追って(8)

◆憎しみ合いのただ中で

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 「大陸に渡ってから、自己の眼前に横たはるものに全くひしひしと胸に迫るものを感じ…」。一九三九(昭和十四)年十二月、中国北部で活動する鉄道第六連隊の「高崎部隊」に配属された尾崎宗吉は親類にこんな手紙を出している。

 宗吉が戦地から親類や実姉に手紙を送ることは珍しくなかったが、検閲の目があるためか、心配をかけたくないためか、その目で何を見たのか、具体的には記していない。

 ただ、宗吉が飛び込んだのは日中が大陸の交通路の支配権をめぐってせめぎ合う最前線だった。中国北部で展開する日本軍の参謀だった吉原矩(のり)・元陸軍中将が戦後、著書の中で高崎部隊について書き記している。「部隊の精鋭は少数の作業員にもかかわらず、かつ戦いかつ修理しつつ困難な鉄道開拓に従事し、第二十師団の補給を安泰ならしめた功績は甚大である」

 日中戦争史を研究する小林英夫・早稲田大名誉教授(75)によると、宗吉が配属されたのは中国・八路軍が「百団大戦」と称して熾烈(しれつ)な反転攻勢に出たころ。「鉄道連隊は物資や人材を運ぶため戦略目標となり、戦闘することが多かった。尾崎も日本軍の防衛戦に参加したのだろう」と推測する。

 「元気一ぱいで毎日苦力(クーリー)(注・下層の中国人労働者)と共に働いています。支那語でドナリつけたりしてね。大分荒っぽくなりました」(四〇年一月)

 「昔は鹿を追ったかもしれませんが僕等はパーロ(注・八路軍)を追っているのです。僕等の部隊の性質のためか或は心の糧の貧しきためからかもわかりません」(同年十二月)

 宗吉たちの日常には殺し合いや、憎しみ合いが当たり前のようにあった。

 宗吉はその後、南方戦線に転じる。四一年十二月、太平洋戦争の開戦は台湾で迎えた。さらにフィリピン・ルソン島などを転戦し、四二年十二月、いったん兵役が明け、再び祖国の地を踏んだ。

 

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