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静岡連載

宗吉の音 幻の作曲家を追って(1)

尾崎宗吉

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 終戦の日のちょうど三カ月前、「彼」、尾崎宗吉は三十歳の若さで出征先の中国で病死した。将来を嘱望されていた作曲家。戦地への二度の召集によってわずか五年ほどしかなかった創作期間で、少なくとも二十曲のメロディーを五線譜に書き留めた。「戦争は愚劣だ」。そう言っていたという宗吉。彼の残したメロディーや書簡、関係者の証言をたどりながら、あの戦争が若者たちから奪ったものを考える。

 

◆生まれ育った弁天島

1930(昭和5)年に撮影された松月の玄関=さざなみ写真館提供

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 夏空と浜名湖の青に挟まれて、朱色の鳥居が鮮やかに立つ。浜松市西区舞阪町弁天島。海水浴客でにぎわったJR弁天島駅前にかつて、「松月」という旅館があった。そこが「彼」の生家だ。

 駅前をそぞろ歩き、彼につながる記憶のかけらを探すが見当たらない。時の流れをかみしめながら、戦前から人々の営みを撮り続けているという「さざなみ写真館」に向かった。

 「松月は知っているけど、その人のことは聞いたことがなかったなあ」。館主の鈴木英夫さん(72)が、八十八年前に先代の父が撮った写真を見せてくれた。重々しい屋根瓦を抱いた玄関。名前の由来か、立派な松の木が脇に控える。

 彼は一九一五(大正四)年四月二十二日、十人の兄弟姉妹の下から二番目、末の男の子として生まれた。体が弱く、舞阪小学校三年生の時、はしかと百日ぜきとの併発から肺炎となり、家族総出で看病したそうだ。

61年に撮影された弁天島の風景。浜名湖岸に旅館が立ち並ぶ。右奥の橋は弁天橋=さざなみ写真館提供

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 裕福な家族の中で、目いっぱいの愛情を受けたのだろうか。病が治ると、父が街のおもちゃ屋の商品を全て買い占めて与えたというエピソードが残っている。五年生の時、中学校進学のため、浜松市中心部の小学校に転校したが、その条件にオルガンをほしがったという。

 一九二八(昭和三)年四月、浜松第一中学校(現浜松北高校)に進学しても、しばらくは病気で休みがちだった。一年休学し、教室に戻った彼は一人の少年とクラスメートになる。名前を木下忠司といった。

 (この連載は飯田樹与が担当します)

 

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