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静岡連載

夏の甲子園100年 球児たちの軌跡 静岡大会優勝校<6> 静岡 

◆投手戦制したスクイズ

甲子園での準優勝を振り返る石山建一さん。卒業後は早大、日本石油で活躍し、早大やプリンスホテルで監督を歴任した=東京都内で

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 甲子園の春夏通算の勝利数が静岡県内で最も多いのは静岡の三十三勝。二位は二十三勝で静岡商だ。全国制覇は静岡は夏、静岡商は春にそれぞれ一回、準優勝はともに夏に二回。「静高(しずこう)」「静商(せいしょう)」と呼ばれ、毎年春の定期戦は「静岡の早慶戦」と言われる。そのライバル同士が第四十二回静岡大会(一九六〇年)の決勝で激突した。

 静高には当時、ジンクスがあった。六〇年の主将で遊撃手だった石山建一(75)=埼玉県所沢市=は振り返る。「甲子園に出ても一回戦で負ける」。三一年から出場した春夏十度の全国大会で九度、初戦を勝ち上がれなかった。中学二年の夏、九度目の初戦敗退の後、担任の先生からその話を聞いた石山は「おれが静高に行ってジンクスを破る」と決意した。毎朝の登校前、実家近くの久能山東照宮の千百五十九段の石段を上り下りして、足腰を鍛えた。

 石山が高校三年で出場した春の甲子園は平安(京都)に延長で敗れ、またも初戦で姿を消した。帰路の列車で、監督の田口一男(故人)がある選手を呼んだ。「今日からおまえが1番(エースの背番号)をつけろ」。石山の一年後輩で、成長著しい石田勝広(75)=静岡市葵区=は「分かりました」と答えた。

 石田も石山に負けず練習熱心だった。毎日の部活動の後、隣接した静岡大のグラウンドを三十〜四十周走った。静高が旧制中学時代に全国制覇した二六年夏のエース上野精三(故人)から「投手は下半身が大事だ」と指導を受けていたからだ。

石田勝広さん

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 迎えた静岡大会で、石田は鍛えた足腰を土台にした制球力を武器に快投を続けた。決勝まで五試合で2失点。「打たれたイメージがない」と胸を張るほど圧倒した。

 静商との決勝は投手戦になった。一、二回と三者凡退の静高は三回、1死満塁の好機をつくった。田口は二番打者にスクイズのサインを出した。成功し先制したが、石田は目を疑った。「田口さんはバントやスクイズはさせない。静高はどんどん振り、対照的に静商は緻密だった」。相手のような戦略で奪った1点は大きかった。石田は最後までホームを踏ませなかった。

1960年静岡大会で優勝した静岡は夏の甲子園で準優勝した。写真は閉会式で石山建一さん(右)を先頭に行進する静高ナイン(静中静高野球部OB会提供)

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 試合が終わり、石田は田口にスクイズの理由を尋ねた。田口は「どうしても1点欲しかった。1点取れば勝てると思った」と笑っていたという。主将の石山も「相手は静商。緊張感もあって苦戦した。やっと1点入ったな」と感じていた。

 甲子園で静高は、ジンクスを破り初戦突破すると、勢いに乗って決勝進出。法政二(神奈川)に惜敗したが、準優勝した。石山と石田は口をそろえる。「甲子園に出るのは静高か静商かの時代。他の高校は、両方を倒せと意気込んで県の高校野球のレベルが上がってきた」。お互いの存在が、勝利への活力となっていた。

=文中敬称略

(荒木正親)

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