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静岡連載

それぞれのW杯 静岡の先人たち<2>

◆移籍が司令塔の血肉に

新たな日本代表選手発掘へ、ジュビロ磐田で練習に力を注ぐ名波浩監督=磐田市のヤマハ大久保グラウンドで

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 フランスの暑さが身にしみた。日本代表は一九九八年、ワールドカップ(W杯)に初出場し三戦全敗。三試合連続で先発し、ピッチで一次リーグ敗退を体感したジュビロ磐田の名波浩(45)=現磐田監督=は「厳しい国際試合での体験が不足していた」と総括した。

 三試合とも1点差負け。見ようによっては、善戦、惜敗とも受け取れる。決定的チャンスも多くつくり、あわやという見せ場もあった。しかし、名波の見解は違っていた。

 「アルゼンチンのバティストゥータら、世界のスター選手とぶつかりあって、位負けしている日本人選手がいた。彼らとやって、普通にプレーできるのが強いチーム。日本が将来的に強くなるには、こうした厳しい国際経験を何度も積み重ねるしかない」

 世界との差を痛感した名波はW杯翌年の九九年六月、磐田からイタリア一部リーグ・セリエAのベネツィアに移籍した。フランス大会を経験した日本人選手としては中田英寿に次いで二人目の移籍。意気揚々とイタリアに乗り込んだ名波だったが、監督交代などで戦術変更が多く、出番が減る厳しい試練を味わった。

 当時のセリエAは世界トップクラスのリーグ。激しい当たりと、中盤を経由しない、直進的な攻撃に、名波のいら立ちは募っていった。二〇〇〇年九月に磐田に復帰し、Jリーグでの舞台に戻ってきた。

 イタリアでの苦しい体験によって名波は心身ともに成長した。帰国後のアジアカップでは日本代表の司令塔として優勝に貢献、大会MVPも受賞した。磐田ではチームのまとまり、意思疎通に心を砕いた。失敗して落ち込む若手には積極的に声を掛け、手を差しのべた。もう少しで飛躍を期待できそうな中堅選手には具体的なアドバイスを送った。磐田は司令塔の完全復帰で、チームに躍動感がみなぎり、〇一年に第一ステージ優勝、〇二年には完全優勝を果たした。

 一方、国内で結果を残した選手は次々と海外に渡り、国際経験を積んだ。フランス大会の日本代表二十二選手は全員がJリーグのクラブ所属だったが、今回のロシア大会は二十三選手中、過去最多の十五選手が海外のクラブに所属している。

 名波は「移籍に失敗はない。海外でのつらい体験は再び、その選手の血肉となってプレーに還元される。それが日本代表を強くする源になると思う。ロシア大会では気後れすることなく頑張ってもらいたい」と後輩にエールを送っている。

(文中敬称略)

 <ななみ・ひろし> 1972年11月28日、藤枝市出身の45歳。清水商高(現清水桜が丘高)で全国総体優勝、全日本ユース優勝に貢献。順天堂大を経て、95年にジュビロ磐田に入団。得意の左足から繰り出されるスルーパスは高い評価を受け、同年、日本代表に初選出。その後、W杯フランス大会、アジアカップで主力。磐田では看板司令塔として黄金期を支えた。引退後、2014年9月、当時J2の磐田の監督に就任。16年にチームをJ1に復帰させた。

 

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