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静岡連載

それぞれのW杯 静岡の先人たち<5>

◆まとめ役 チーム再生

2006年W杯ドイツ大会の日本−ブラジルで、ロナウドと競り合う川口能活=ドイツ・ドルトムントで(横田信哉撮影)

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 誰もが耳を疑った。二〇〇九年九月の右足骨折で、長期の戦列離脱から復帰したばかりのジュビロ磐田のGK川口能活(42)が二〇一〇年のワールドカップ(W杯)南アフリカ大会の日本代表に選出された。

 サプライズ選出された川口は「99・9%、選ばれるとは思っていなかった」。と苦笑いを浮かべた。W杯四大会連続の代表選出となったが、試合に出場するのは極めて難しい第三GK。当時の日本代表監督の岡田武史が川口に求めたのは、選手としての力量ではなく、チームをまとめるリーダー役だった。

 〇七年、日本代表監督のオシムが病気のため、監督を退任。急きょ、監督を務めた岡田は高い位置からボールを奪うプレッシングサッカーを試みたが、結果が出なかった。チームに巣くう不協和音を、岡田は川口の求心力で打ち払おうとした。

 川口は不屈の精神力を持つ男だ。一九九六年のアトランタ五輪。日本がサッカー大国のブラジルを1−0で破ったとき、ブラジルのシュートの嵐を乗り切り、勝利をもたらした。Jリーグで、日本代表で、そのカリスマ性は際立った。座右の銘は「苦は楽の種」。練習の量、取り組む姿勢は誰もが見習うほど。横浜、磐田時代を通じて、体の切れを良くするために個人トレーナーと契約、独自の体力練習を課していた。川口の発する言葉、態度は大きな意味を伴っていた。

 南アフリカ大会では、川口は積極的に選手に話し掛け、一緒のテーブルで食事をしてコミュニケーションを図った。選手としてではなく、リーダーとしての役割だった。

 一つになったチームは一次リーグを突破。初のベスト8入りを懸けたパラグアイ戦では0−0のまま延長戦に。結局、PK戦で敗れたが、川口の献身的な力は大きな評価を得た。

 ことし八月に四十三歳を迎える川口は今季もJ3のSC相模原でプレー。三月九日の開幕から四試合連続で先発したが、その後は二十二歳のGK田中雄大に先発を譲っている。

 練習環境はJ1と比べると、見劣りがする。今もピッチに駆り立てている原動力は勝利への飽くなき思い。そこに年齢は関係ない。日々の練習から自分を追い詰め、指先にまで張り詰めた緊張感でボールをはじく。少年時代から続く、勝利の歓喜を追い求める日は続く。

(文中敬称略)

(川住貴)

=終わり

 <かわぐち・よしかつ> 1975年8月15日、富士市生まれ。小学4年からGKを始めた。清水商高(現清水桜が丘高)3年時、全国高校選手権優勝。94年に横浜に入団。96年アトランタ五輪日本代表。98年W杯フランス大会から4大会連続の日本代表選出。2001年、英国・ポーツマスに移籍。04年、アジアカップ優勝に貢献。05年に磐田に移籍。その後、J2のFC岐阜を経て、16年から、J3のSC相模原でプレー。

 

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