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静岡連載

それぞれのW杯 静岡の先人たち<4>

◆直前の負傷 指導へ教訓

ジュビロ・中村俊輔(右)らの練習を見守る田中誠=磐田市のヤマハ大久保グラウンドで

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 それは突然だった。二〇〇六年のワールドカップ(W杯)ドイツ大会の日本代表に選出されたDF田中誠(42)=ジュビロ磐田=は、現地での直前合宿の紅白戦で、左ひざの裏側に「ぴりっ」とした違和感を覚えた。

 嫌な予感がした。ドイツに渡る前の国内合宿で痛めたところの再発に近かった。すぐに病院に直行、精密検査で肉離れと診断された。田中は「頭の中が真っ白になった」と振り返った。

 肉離れは合流まで最低二週間はかかる。一次リーグには間に合わない。日本代表監督のジーコは田中のチーム離脱を表明、代わりにDF茂庭照幸(FC東京)を緊急招集した。

 田中にとってW杯出場は小さいころからの大きな夢だった。日本が初出場した一九九八年のフランス大会、日本がベスト16入りした二〇〇二年の日韓大会。「いつか俺も」とレベルアップを図ってきた。

 それが、W杯初出場を目前に控えてのリタイア。田中の心は大きく揺れた。ドイツ大会のアジア最終予選突破に貢献した田中に、ジーコは「このままチームに帯同してもいいぞ」と声を掛けたが、「チームに残って、みんなの足手まといになってはいけない」と帰国を決めた。

 田中は一九九六年のアトランタ五輪の日本代表。九七年から始まる磐田黄金期に、守備の中心選手として活躍してきた。当時、磐田の試合前の練習は激しかった。練習を終えると、すべての力を使い果たしてぐったりとなり、食事をして眠るだけの毎日だった。

 「選手層が厚く、全力を尽くしたプレーをしなければ、試合には出場できない。日本代表でも一緒だった。だから、あの時の紅白戦でも百パーセントの力を出した結果だったが、けがのリスクを回避する判断も必要だったのかな」と語った。

 二〇一一年に引退。一五年から、磐田ユース(高校)で監督、一七年に磐田のトップコーチに就任した。指導者となって選手を見る目線が変わった。全力プレーを要求するが、体調不良やけがを抱える選手には無理はさせないことに気を使った。選手は試合に出場したいがために、小さなけがを隠してでも、練習を行うことがあるからだ。

 「全力プレーはプロとして必要だが、けがへの配慮も求められる。W杯を目前に控えてのけがで、夢舞台を棒に振った苦い経験が指導者となって生かされている」

(文中敬称略)

 <たなか・まこと> 1975年8月8日、静岡市清水区生まれの42歳。清水商高(現清水桜が丘高)3年時、全国高校選手権優勝。94年磐田入団。96年アトランタ五輪日本代表。磐田黄金期の最終ラインの中心選手。2006年のW杯ドイツ大会の日本代表に選出されたが、大会直前のけがで本大会に出場できなかった。17年から磐田トップコーチ。

 

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