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静岡連載

追放の先に 海老塚・暴力団和解から30年<上>

 海老塚の住民と一力一家の間で和解が成立してから、十九日で三十年を迎える。海老塚は、その後に全国で広がった暴力団追放運動の先駆けとして、歴史に名を刻まれた。運動、人権、支援−。その歩みとこれからを探る。

◆丸腰でも戦った 地域守る運動、全国へ

新聞記事のスクラップ帳をめくりながら、30年を振り返る水野栄市郎さん(右)と妻悦子さん。後ろには、和解が決まった時に住民たちと喜んだ写真が飾られている=浜松市中区海老塚で

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 パラリ、パラリ。あごに長い白ひげを蓄えた水野栄市郎さん(75)=浜松市中区海老塚=が、古いスクラップ帳をめくっていく。黄ばんだ新聞記事には「住民と一力一家が和解」「海老塚に“平和”戻る」と見出しが躍る。

 「あっという間だね」

 住民側のリーダーだった水野さんと妻悦子さん(76)が振り返った。

 一九八五年三月二十日。

 南小学校(現双葉小)でPTA役員として卒業式に出席していた。式後、校長室で談笑中、警察官がやってきた。「暴力団事務所ができるらしい」

 施工業者は「テナントビルだ」として否定。だが翌年、校舎から約百メートルの場所に黒塗りのビルが建った。中には「一力一家」の文字や紋章の入ったちょうちんが並んでいた。

 子どもたちに「大人は何をしていたの」と言われたくない−。住民らと横断幕を掲げ、スピーカーを使って街宣し、市に建ててもらった監視小屋に詰めるなどの活動を始めた。

 暴力団側も、黙ってはいなかった。

 「殺すぞ」「娘の命は無い」。地域中の家に脅迫電話が後を絶たず、運動から離れる住民もいた。法廷闘争が始まった後の八七年六月には水野さん宅が組員に金属バットで襲撃され、弁護団長も刺されて重傷を負った。「怖かった。でもここでやめたら暴力団の思うつぼと思った」と悦子さんは話す。

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 八八年一月二日夜には、住民側リーダー格のタクシー運転手渡辺洋三さん(74)が、自宅前で乗せた男に首を切られた。あと数ミリ傷が深ければ、命は無かった。

 「丸腰の住民を襲うなんて!」。翌日の住民集会で水野さんは泣き叫んだ。

 県警は他県警からも応援を集め、連日数百人で警戒した。包囲網を狭めたかいもあり、二月十九日、住民側勝利の和解が成立。「警察と市と、弁護士の皆さんのおかげ」。監視小屋は、バンザイをする住民たちであふれた。

 その後、水野さんは当たり屋の組員に悩んでいた地元の保険会社に感謝されたり、各地の講演会に呼ばれたりした。海老塚から全国に暴追運動が波及した。「地元を守るための活動が、まさか日本中に広がるとは。戦い抜いて良かった」

 しかし−。九一年三月、自宅前で男に道案内を頼まれ、地図をのぞき込んだ隙に、刃物で顔を切られた。全治一カ月。「まだ終わっていない」と感じた。

 和解から、三十年。

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 傷痕を隠すために伸ばしたひげは、すっかり白くなった。警察官の警護はなくなり、防犯カメラの台数も減った。

 街並みも変わった。JR浜松駅南の好立地。組事務所が消えた後、ビルやコインパーキングが次々にでき、個人商店や食堂は店を閉じた。

 当時重傷を負った渡辺さんは、時代の流れに寂しさを感じる一方、暴追運動の仲間たちと熱田神宮への初詣を続け、思い出話に花を咲かせる。「もう僕らの出る幕じゃないでね。それだけ、平和だってこと」

 水野さん夫妻は今、ボランティアで双葉小の児童の見守り活動を続ける。地域が一つになって闘い、勝ち取った平和。「街は変わった。けれど、あの時の思いは変わらない」「そうだね」。夫妻が顔を合わせて、ほほ笑んだ。

(鈴木凜平)

 <海老塚暴力追放運動> 浜松市中区の海老塚地区の住民らが1985年から約3年間、山口組一力一家の事務所ビル立ち退きを求めた運動。法廷闘争となり、88年、静岡地裁浜松支部で「建物を住居以外に使わない」「組側は住民の人格権を侵害する恐れがある者に建物や土地を売らない」など事実上、住民側勝利の内容で和解が成立、事務所ビルは売却された。その後、全国で組事務所の撤去が加速し、92年の暴力団対策法施行につながった。

 

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