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静岡連載

平成人<6> リオパラ「銀」の車いす陸上選手 佐藤 友祈さん

佐藤 友祈(さとう・ともき)さん 28歳 平成元年生まれ

東京パラリンピックへ向けた思いを語る車いす陸上選手の佐藤友祈さん=岡山市のグロップサンセリテワールドアスリートクラブで(斉藤直純撮影)

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◆障害者スポ 僕が広める

 平成という時代は、「障害者スポーツにスポットが当たり始めた」時代。藤枝市出身のリオデジャネイロパラリンピック陸上男子(車いすT52)銀メダリスト佐藤友祈選手(28)は、そう表現する。二〇一二年夏のロンドン大会が日本でテレビ放映されたからこそ、「選手」になったからだ。

 パラリンピックの起源は一九四八年夏、ロンドン五輪の開幕日にイギリスの病院で行われた障害者によるアーチェリー大会とされる。同大会が発展し六〇年、「第一回パラリンピック」がローマで開催。以後、大会規模は拡大を続けるが、佐藤選手は「車いす陸上を、二〇一二年のロンドン大会で初めて知った」という。自分の体も同じ状態になっていたからかもしれない。でも「日本のメディアは、それまでパラリンピックを大きく取り上げていなかった」と感じている。

 佐藤選手が病気を発症したのは一〇年秋。アルバイトをしていた東京で突然、足腰から力が抜け、意識を失った。搬送先の病院で一カ月間検査入院したが、原因が分からないまま帰郷。静岡県内の病院を回り、一年半後の一二年三月、急性脊髄炎と診断された。下半身不随で車いす生活になり、自宅にこもりがちになった。

 同年夏、転機が訪れる。ロンドン大会の車いす陸上をテレビで見た。風を切りながらさっそうとトラックを駆ける選手に憧れた。「ああ、自由だ」。四年後のリオ大会を目指そうと決めた。

 初めは家族にも信じてもらえなかった。競技経験はゼロ。発症してからの運動不足がたたり、体重は九〇キロ近かった。お世辞にもスポーツマンとは言えない体形だったにもかかわらず「根拠のない自信だけは持っていた。僕だったらできるっしょ、みたいな感じ」。手始めに車いすで自宅から藤枝駅まで往復十キロを毎日こいだ。腕はぱんぱんになったが、楽しかった。

 独学でのトレーニングに限界を感じ始めた一四年、指導者を求めて岡山市に移住した。翌年十月の世界選手権で金メダルを取った。一六年夏のリオ大会では400メートル、1500メートルに出場した。両種目の世界王者レイモンド・マーティン選手(米国)に敗れたものの、いずれも銀メダル。そして一七年秋の世界選手権。再びマーティン選手に挑み、両種目ともに雪辱を果たして優勝した。

 二〇年の東京大会は、二十二競技五百三十七種目が実施され、史上最多の四千四百人の参加が見込まれる。開催地が東京に決まって以降、パラリンピアンの露出が一気に増え、認知度は高まったと感じる。それでも「平成の最終盤になって注目され始めたけど、まだまだ。世の中の人たちは、五輪はちゃんと見るけどパラは見ない、みたいな感じじゃないかな」。パラリンピックが見たい、車いす陸上を見よう。そんなファンを増やすため、東京大会では必ず「金メダルを取る」と決めている。

取材・松野穂波(平成元年生まれ)

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