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静岡連載

戦後70年 源流 平和の俳句<7>

浜松・久野茂さん(1886〜1966)

焼跡に露店衝き合ふ雲の峰

※焼跡=やけあと 衝=つ

◆新社会への希望詠む

久野茂さん=遺族の自叙伝から

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 戦時中の空襲で焼け野原になった街に露店がずらりと並び、買い出しの客でにぎわっている。青空には入道雲がもくもくと盛大に湧き上がっている。

 浜松の医師だった久野茂(しげり)(一八八六〜一九六六)が、浜松駅にほど近い闇市を表現した句だ。終戦の一年後。コメも野菜もふんだんに売っていた。ライターや野球のグラブさえ手に入った。当時の報道によれば、露天商の六割が戦災で焼け出された人で、三割が外地から引き揚げた人。生活の再建が着々と進んでいた。

 「希望を詠んだ句」と解釈するのは、久野の親戚で俳句をたしなむ浜松市中区の山崎富美子(83)だ。

 当時十代の少女だった山崎にとって闇市は暗くて怖い場所だったが、「あの人は闇市で空を見上げた。雲の峰という夏の季語も前向きな雰囲気を伝えていますね」

 久野は浜松駅近くの自宅兼医院を空襲で失っていた。建て直すめどが立っていた時期ではなかったか。本人の手記によると、この句を詠んだ半年後に元の場所で診察を再開している。

 仕事だけでなく、趣味も戦前と同じように取り組んだ。午前中に診療を終えた日は、午後から義太夫の稽古へ。横浜市に住む孫の金岡恵美子(69)は「いつも暇なくしていた人だった」と思い起こす。

1946年ごろの浜松駅北側の闇市=浜松市立中央図書館所蔵

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 久野は、中学生時代から「仙雨」の号を持っていた俳句にひときわ情熱を注いだ。しばしば診察の合間に墨をすって短冊に作品をしたためていた。

 旧浜松市内の寺社にそれぞれどんな句碑があるか戦前に自ら歩き回って調べた記録が空襲で灰になってしまったため、四七年夏から再調査。わずか一年で冊子にまとめた。これは市史で「郷土研究誌の先駆けをなすもの」とたたえられている。

 この頃の手記で、久野はこんな文を残している。

 「まず以(も)って芸術俳句としても民主散文詩的時事的作品のみでなく…(中略)…文明を批評し、人生を批評し、指導性、政治性のある作品の出現を夢とのみ考えてはいられぬ時代というべきである」

 軍国主義から民主主義へ。全体主義から個性を重視する世の中へ。久野が発したのは、「俳句で新しい社会を築いていこう」というメッセージだ。

 十年余たってから、こんな作品も残している。

 <秋気澄む俳句の活路矛盾なく>

 この句の通り、久野はのびのびと作句を続け、六六年に七十九歳で生涯を閉じた。日本は既に高度成長期真っ盛りだった。

(文中敬称略)

=終わり

※この連載は、西田直晃と渡辺聖子、池田知之、清水俊郎が担当しました。

 

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