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静岡連載

戦後70年 源流 平和の俳句<5>

細江・山口繁夫さん(1904〜99)

蜩や水をよく吸う吾子の墓

※蜩=ひぐらし 吾子=あこ

◆息子の死と向き合う

空襲で亡くなった長男・八吉の墓参りをする山口繁夫さん=1951年撮影(遺族提供)

写真

 細江の山口繁夫(一九〇四〜九九)は戦後、木の商いを息子と始めた。近所の山で切り倒したヒノキやスギを柱や板にして、街に売った。六〇年代半ばになると、引佐郡(現在の浜松市北区の一部)で一番の材木会社の社長になっていた。

 「とにかくまじめな人だった」と次男の恒夫(83)は振り返る。

 禁酒禁煙。頭髪はいつも自分でバリカンを操って丸刈りに。独学で公認会計士並みの経理の知識を身に付けた。幼い頃から俳句をたしなむほかは、ひたすら働き詰めの父だった。

 ただ、多忙な時期でも毎月七日を迎えると、繁夫は決まって外に出かけた。

 長女のたね子(91)は「雨が降ろうと風が吹こうと、じっと墓に向き合っていた」と回想する。<蜩(ひぐらし)や水をよく吸う吾子(あこ)の墓>は繁夫が「華村」という俳号で詠んだ句だ。

 酷暑の中、ヒグラシがカナカナカナと鳴くのを聞きながら、私はわが子の墓に水を掛けている。

 あの日もセミが鳴いていたはずだ。四五年八月七日午前十時すぎ。三十キロ西の豊川海軍工廠(こうしょう)(愛知県豊川市)が、米軍のB29に爆撃を受けた。

 二千五百人を超える死者の中に繁夫の長男の八吉(やきち)がいた。まだ十六歳。小学校の高等科を卒業し、豊川の寮に住み込みで働き始めたばかりだった。

 学校音楽隊で花形のラッパの吹き手を務めた自慢の息子。二日前に一時帰宅し「工作兵の試験の一部に合格したから、鷲津の工場に移るかもしれない。それなら自宅から通勤できる」と誇らしげに報告してくれた。

 繁夫は翌朝、「八吉は足が速いから逃げることができたはず」と祈りながら自転車で現場に向かった。元気な姿も遺体も見つからなかった。結局、血染めのゲートル(脚半)と靴下だけを受け取った。終戦のわずか一週間前だった。

 繁夫が八吉の月命日に足を運んだのは、自宅近くの墓だけではない。豊川海軍工廠跡地の近くに建てられた供養塔にも通い、犠牲者の名が刻まれた石板の「山口八吉」の部分を何度も指でなでた。

 <蜩や>の句には、こんな思いも込められているのではないか。

 炎に包まれて死んだ息子は今、焼け付く喉を潤せているのだろうか。墓石に掛けた水はすぐに渇いてしまう。

 繁夫は八三年に唯一の句集「山柿」を刊行。秋の句も残している。

 <早逝(そうせい)の遺影夜長の灯のうるむ>

(文中敬称略)

 

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