トップ > 静岡 > 地域特集 > 静岡連載 > 記事一覧 > 2015年の記事一覧 > 記事

ここから本文

静岡連載

戦後70年 源流 平和の俳句<3>

浜松・原田喬さん(1913〜99)

雀烏われらみな生き解氷期

※雀=すずめ 烏=からす

◆抑留で苦難、戦争憎む

原田喬さん=九鬼あきゑさん提供

写真

 春の訪れを無邪気にはしゃぐ句ではない。

 詠み手は、浜松の原田喬(たかし)(一九一三〜九九)。旧ソ連のシベリアに抑留されていた四五〜四八年の作品とみられる。原田の俳句の教え子で浜松市東区に住む鈴木明寿(あきひさ)(81)は、「戦争の悲惨さを静かに訴えている句」と受け止める。

 雀(すずめ)も烏(からす)も私たちも、生きとし生けるものすべてが春を迎えられた。

 「何とか生き延びている」。原田にはそんな思いがあっただろう。

 収容されていたのは、冬の気温が氷点下四五度に達するシベリア中部のクラスノヤルスク。毎日朝から森林の伐採作業を強いられ、夜は空腹に耐えながら丸太小屋で横になった。

 皆が寝静まった頃にコトッというかすかな音が聞こえると、「また誰かが死んだ」と思った。原田は帰国後に「人が力尽きて死ぬ時にのどが落ちる音だ」と周囲に語っている。

 永久凍土を掘り返すのは難しい。埋葬をするひまもなく、仲間たちの遺体は小屋の外に積み上げておくほかなかった。

 「自分はシベリアで一度死んだ身。これからは余力で生きる」。原田は帰国後に自嘲したという。

浜松市内で戦後、空襲の焼け跡に次々と立ったバラック小屋=浜松復興記念館提供

写真

 でも、長上村(現在の浜松市東区の一部)の与進中学校で英語と社会を教えた原田は、気を抜いた様子がなかった。

 教え子で浜松市北区の野沢晴子(78)は、授業中に騒いだ男子たちを鎮めるために原田が取った行動が忘れられない。右手に持っていた木の指し棒で、自らの左手を突然むち打ってみせたのだ。ビシッという音で教室は静まり返った。

 体罰をはばからぬ教員も多い時代だったが、原田は決して生徒をたたかなかった。野沢は「原田先生は力でなく心で生徒をひきつけたかったのでは」と想像する。

 原田は五八年に浜松商業高校へ転任し、県高校教職員組合のリーダーとして教師の待遇改善や反管理教育を強く求めた。日米安保条約反対の国会前デモや沖縄返還要求行進に参加。<デモ終へし息深くして冬木の前>や<返せ沖縄玉葱(たまねぎ)育つ砂嵐>といった句も残している。

 シベリアで培った暴力を憎む気持ちと反骨精神。原田が七五年に創刊した俳誌「椎(しい)」を九鬼(くき)あきゑという名で引き継いでいる妻(73)は「強い者、権力を持つ者としては生きたくなかったのでしょう」とほほ笑んだ。

(文中敬称略)

 

この記事を印刷する

中日新聞・北陸中日新聞・日刊県民福井 読者の方は中日新聞プラスで豊富な記事を読めます。

中日新聞しずおかの記事はこちら

新聞購読のご案内

PR情報

地域のニュース
愛知
岐阜
三重
静岡
長野
福井
滋賀
石川
富山

Search | 検索