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静岡連載

戦後70年 源流 平和の俳句<2>

掛川・松本俊男さん(1894〜1996)

明るき燈暗き心や火取虫

※燈=ひ 火取虫=夜に灯火に集まってくる虫

◆町の灯戻るも虚しさ

1954年の松本俊男さん=遺族提供

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 夜更けの街灯に蛾(が)や黄金虫(こがねむし)が群がっていた。ブン、ブーンと弱々しい羽の音。黄色の電球にぶつかるコツン、コンとかすかな音。光を懸命に求めるその姿が哀れに見える。

 敗戦のしばらく後。五十一歳だった松本俊男(一八九四〜一九九六)は、生まれ育った横須賀町(現・掛川市横須賀)を重苦しい気持ちで歩いていた。

 浜松や静岡と違い、米軍の攻撃の的にはならなかった。軽便鉄道「中遠線(ちゅうえんせん)(後の駿遠線)」の駅も文具店も薬局も無事だった。B29の空襲を逃れるため光を隠した灯火管制が解かれ、町の夜は明るさを取り戻した。

 それなのに心は闇に覆われたままだ。

 「みんな、日本がどうなるのか不安でしたから。火取虫に自分を重ね合わせたんじゃありませんか」。松本から短歌の指導を受けた掛川市大渕、平塚すが(80)はそう思案する。

 松本自身が一九七〇年代から八〇年代にかけてまとめた回顧録によれば、戦中の自分の仕事への虚無感もあったらしい。

1948年ごろ、遠州灘に面した砂浜で塩作りに励む人たち=旧大須賀町発行の「写真でつづるふるさと大須賀」から

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 町役場の幹部職員の一人として、赤紙と呼ばれた軍の召集令状を男たちに手渡して回った。彼らは「万歳、万歳」と祝福されて戦場に送り出され、多くは二度と戻って来られなかった。彼らの遺族に付き添って、名古屋や岐阜の軍施設まで遺骨を引き取りに行ったこともあった。

 松本は回顧録につづっている。

 「多くの戦死者を出し、莫大(ばくだい)な戦費と物資を費やし、本土まで甚大な戦火を蒙(こうむ)って、今日に及んだのは、何の意味であったのだらうか」

 横須賀町では、多くの町民が海水から塩を作ってコメや薪に交換し、終戦直後の食糧難を乗り切った。松本は五十八歳で町の収入役を退いた後も、「翠鳥(すいちょう)」の名で俳句と短歌を詠んだ。

 郷土史家を称してからは、新聞や町の広報紙に計二百本以上のコラムを連載した。横須賀町と隣の大淵村が五六年に合併してできた旧大須賀町の町史の一部を執筆した。

 短歌の教え子の一人である掛川市西大渕、高橋君子(85)は「もの静かで温厚なのに威厳を感じさせる人。松本先生の前に立つと、自然に正座するんです」と振り返る。

 八三年春。高橋ら十一人が松本の菩提(ぼだい)寺である町内の龍眠寺に歌碑、横須賀城跡に句碑を建てた。松本はその十三年後に百一歳で死去。二つの碑は今もきちんと手入れが施されている。

(文中敬称略)

 

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