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静岡連載

泳心百年 浜名湾游泳協会のあゆみ<上>

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 静岡県西部で水泳を愛す人が集う「浜名湾游泳(ゆうえい)協会」が、一九一六(大正五)年の設立から百年の節目を迎えた。日本水泳連盟(日水連)の前身組織より八年早く誕生し、多くの五輪選手を生み出してきた。日本水泳界の歩みに先んじた協会の歴史を、十月二十四日の記念式典を機に振り返る。

◆フジヤマのトビウオ 魚になるまで練習

 一九三八(昭和十三)年夏、古橋広之進は雄踏町(現浜松市)の浜名湖畔に立っていた。当時、小学四年生の骨太な少年の目に映ったのは、湖面に水しぶきを上げて泳ぐ選手たち。浜名湖の一角を板で囲んだ五十メートルのコースで開かれた水泳大会が、のちに世界記録を三十三回塗り替える「フジヤマのトビウオ」と水泳との出合いだった。

 「そのスピード、その豪快さにひきつけられ、いつの間にか手を固く握りしめていた」。古橋は後年、浜名湾游泳協会の創立七十五周年記念誌にこうつづった。

競泳自由形で世界新記録を連発した全盛期の古橋さん=1949年

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 すぐに小学校の水泳部に入った古橋は練習に明け暮れた。毎日のように自宅から二百メートルほどにある浜名湖にふんどし一枚で飛び込んだ。魚が目に入ると自分自身も魚になったつもりで懸命に追った。

 六年生になった古橋は県大会に出場し、100メートル、200メートルの自由形で学童記録を塗り替えて優勝。「雄踏の豆魚雷」と称され、将来を嘱望された。

 だが、太平洋戦争が暗い影を落とす。練習どころではなくなり、目の前にある浜名湖で泳げない日々。浜松第二中学校(現浜松西高)三年生のとき、学徒動員された浜松市内の兵器工場で、機械に誤って挟まれて左手中指を切断した。

 戦争が終わり、日本大で水泳を再開するも、左手の先から水が逃げる。選手生命の危機は、工夫で乗り切った。右手で強く水をかく躍動的な泳ぎを身に付けた。「もっと記録を出せる」と練習の鬼と化し、その積み重ねは世界で花開いた。「魚になるまで泳げ」という口癖は、実体験から生まれたものだった。

 現役引退後は日水連会長など要職を歴任しながら、浜松周辺の水泳大会にたびたび顔を出した。浜名湾游泳協会が運営する小学生の全国大会「とびうお杯」や、古橋広之進杯など、自身の愛称や名前の付いた大会。古橋がいるだけで会場の雰囲気が引き締まった。

とびうお杯の歓迎式典で子どもたちに声をかける古橋広之進さん(右)=2004年7月30日、浜松市内のホテルで

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 「忙しいのに浜松まで来てくれて、試合を熱心に見て選手に声をかけていた。子どもたちには大いに刺激になった」。古橋の二中時代の水泳部後輩で、協会名誉会長の河合九平(86)は懐かしむ。

 古橋は二〇〇九年八月、日水連名誉会長として世界水泳選手権を訪れたローマで客死した。八十歳。例年なら出席するはずのとびうお杯と日程が重なり、日本を旅立つ前「後で記録を送ってほしい」と最後まで気に掛けていた。座右の銘「泳心一路(えいしんいちろ)」の言葉通り、水泳一筋に生きた。河合は思う。「古橋さんにとって浜名湾が原点だったのだろう」と。

=文中敬称略

(この連載は、宿谷紀子が担当します)

 <浜名湾游泳協会> 1916年、浜松中学校(現浜松北高校)や浜松商業学校(現浜松商業高校)など4つの水泳部により結成。いち早く水泳の普及を進め、拠点となった静岡県西部からは、1930年代に競泳自由形の宮崎康二(浜松一中・現浜松北高=湖西市出身)や寺田登(見付中・現磐田南高=磐田市出身)ら五輪金メダリストが生まれている。現在はNPO法人として水泳大会の開催や指導者育成に取り組む。協会と中日新聞東海本社による実行委員会主催で、日本水泳連盟が唯一公認する小学生の全国大会「とびうお杯 全国少年少女水泳競技大会」は今年30周年を迎えた。

 

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