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静岡連載

戦後70年 天竜川決壊 くりぬかれた堤<中>

◆軍用の壕 濁流呼ぶ

1945年10月の天竜川の堤防決壊現場=国土交通省中部地方整備局浜松河川国道事務所提供

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 堤防の穴は、防空壕(ごう)だった。

 住民を守る壕ではない。本土決戦で兵士たちがこもるつもりだった壕だ。「浜松市史」によると、天竜川右岸で高射砲を操る陸軍の歩兵第四〇九連隊のため戦時中に掘られた。一九四五(昭和二十)年十月五日午後、天竜川は現在の浜松市南区金折町にあったこの穴から決壊した。

 当時の中部日本新聞(現在の中日新聞)は、「決潰(けっかい)は壕跡から」と報じている。地元の人たちによると、長さ三十メートルほどの壕で、内部は大人が立って歩ける高さだったらしい。北端は河川敷、南端は集落側に出入り口があった。

 近くに住む磯部嵩夫(たかお)(85)は、昼食を済ませた午後一時ごろ誰かに頼まれたことを覚えている。

 「天竜川がどんどん増水している。防空壕が危ないから水防に出てくれ」

 激しい雨の中、現場まで走った。二十人ほどの住民が集まっていた。「壕が川の水で一杯になったら、堤防ごと崩れてしまう」。嵩夫たちは、河川敷側の出入り口をふさごうとした。雑木や土砂をいくら放り込んでも、川の水や雨と一緒に壕の内部に流れ込むばかりだった。

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 叫び声が聞こえた。「畳を持ってこいっ」。そんなもので水が防げるはずもなかった。間もなく川の水位が、壕の出入り口の高さに達した。大量の水が壕に浸入し、反対側の出入り口から水が噴き出した。

 「もう駄目だ」

 嵩夫は、崩れ始めた堤防ののり面を駆け下りた。逃げ込んだわが家も間もなく濁流に襲われた。

 「堤防の横っ腹に用水路を掘られたのに等しかった」と嵩夫はあきれるが、当時は十五歳で、壕の存在も知らなかった。普通の住民は戦時中、容易に近づくことが許されなかった。

 壕の出入り口の目の前に住んでいた磯部茂栄(しげえ)(86)は「壕の中は薄暗くて、たくさんの小銃が置かれていた」と振り返る。「軍は戦いに必死で、住民の安全は二の次。そういう時代だった」

 軍が放置した負の遺産。一カ月ほど後、「あの防空壕を掘る作業を指揮した兵士が決壊現場を見に来た」といううわさが広まった。茂栄は冷ややかに振り返る。

 「切れた場所をぼうぜんと眺めた後、ただ黙って立ち去ったそうだ」

=文中敬称略

 <天竜川の変遷> 1945年に決壊したのは、現在の浜松市南区で天竜川からいったん西に分かれて再び本流に戻る「西派川」の堤防だった。51年に上流の分岐点が締め切られて西派川の大半は無くなったが、一部が現在の安間川として残っている。対岸の磐田市側にも戦時中の44年まで「東派川」という天竜川の分流があった。

 

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