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静岡連載

戦後70年 天竜川決壊 くりぬかれた堤<上>

◆終戦直後 非情の雨

1945年10月の堤防決壊で水没した天竜川下流域=普門寺提供

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 終戦から二カ月後の一九四五(昭和二十)年十月五日、遠州地方は激しい雨に見舞われた。現在の浜松市南区金折町で天竜川の堤防が決壊して八百五十戸が浸水し、死者・行方不明者は計三十四人に上った。米軍の空襲や艦砲射撃の恐怖から解放されたばかりの住民たちは、追い打ちを掛けられた。

 切れた堤防から田畑に流れ込む泥水。濁流が民家をのみ込み、屋根の上に逃げた人々が助けを求める−。先月十日の午後、磯部嵩夫(たかお)(85)は南区金折町の自宅で、テレビの画面から目が離せなかった。

 ニュースで報じられていたのは、茨城県常総市の鬼怒川の堤防決壊。十五歳だったころの鮮明な記憶がよみがえった。

 「あの日と同じだ。自分はあんな灰色の水に飛び込んだ」

天竜川の水害を体験した当時を振り返る磯部嵩夫さん=浜松市南区金折町の自宅で(川戸賢一撮影)

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 七十年前の十月五日。台風の接近で、静岡県内は暴風雨だった。静岡地方気象台によると、この日の降水量は先月八日の浜松の豪雨に迫る一五六・五ミリ。浜松工業学校(現浜松工業高)の三年生だった嵩夫は、自宅から百メートルの近さにある堤防が午後三時ごろ決壊したと記憶する。近所の人たちと一緒に堤防に駆けつけてあふれる水を止めようと試みたが、あきらめた。

 周囲の民家は押し流されていて、嵩夫の家だけ孤島のように残っていた。家族と親戚の計二十人余で二階に避難し、身を寄せ合った。幼い子どもが「怖いよう、怖いよう」と泣き叫んだ。三十八歳だった母の志げは、乳飲み子だった末っ子の春子をはんてんに包んで背負っていた。祖父が「ひさしまで水が来なければ、家は流れない」と皆を励ました。

 バリバリ、ダーン。間もなく大きな破壊音とともに家が揺れた。上流の貯木場から流れた材木と濁流が垣根をなぎ倒し、敷地になだれ込んで来たのだ。

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 「このままでは無事でいられない」。嵩夫は階段を駆け下り、屋外に飛び出した。冷たい泥水に胸まで漬かり、堤防から少しでも遠くへと泳いで逃げた。激流と化していた近くの用水路も横切った。二百メートルほど進んで別の建物の二階に逃げ込み、夜を明かした。

 翌朝、自宅は跡形も残っていなかった。七人きょうだいと両親、祖父の十人家族のうち、四人が亡くなっていた。翌年から小学校に通うはずだった妹のきくのの遺体は、サツマイモ畑で見つかった。母の志げは水田に埋もれていた。幼い春子を背負ったままだった。九歳だった弟の忠雄の遺体は一キロも流されていた。

 天竜川からあふれた水は、一カ月たってもひかなかった。地元の普門寺に当時の写真が残る。「あの水害は人災だった」と嵩夫。そう断じる根拠がある。人々の命を守るはずの堤防がくりぬかれ、穴が開いていた。

=文中敬称略

(久下悠一郎)

 <1945年10月5日の天竜川決壊> 「静岡県異常気象災害誌」(1980年、県産業気象協会)によると、天竜川の本流から分かれた「西派川」の西側堤防が、旧芳川村金折(現浜松市南区金折町)で40メートルにわたり決壊した。河輪、五島、飯田を加えた当時の流域4村で計1200万平方メートルが浸水。死者・行方不明者のうち少なくとも20人が芳川村の住民だった。

 

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