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静岡経済 特集

時代を超えて ツナ缶の物語<8> シーチキン飛躍の礎

シーチキンの普及に尽力した(左から)久木さん、竹内さん、桜井さん、大橋さん=静岡市清水区で

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 シーチキンって何? 名前変えた方が売れるんじゃないの?−。今ではツナ缶の代名詞のような商品だが、かつてはそんな風にいぶかしむ食品問屋が少なくない時代もあった。

 後藤缶詰の久木一彦(74)は若手社員のころ、問屋でシーチキンを扱ってもらおうと、営業活動にいそしんだ。「ライトバンに缶詰を詰め込み、軒並み回った。問屋のおやじさんに説明して試食もしてもらい、店に置いてもらった」

 同社は戦前に創業し、社名を数回変えて今のはごろもフーズ(静岡市清水区)となる。一九五八(昭和三十三)年に「シーチキン」の商標を登録し、国内でツナ缶を広めようとしていた。社史「はごろも缶詰の五十年」によると、当時の社長だった二代後藤磯吉(故人)自らが決めた名称で、米国の地元メーカーが販売していたツナ缶「チキン・オブ・ザ・シー」にちなんだ。

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 シーチキンはすぐに浸透したわけではなかった。そのころ各メーカーは米国への輸出用にツナ缶を多く作っており、国内ではなじみの薄い商品だった。

 輸出が最も盛んだったのは一九六〇年代。後藤は他社に先がけて国内市場の開拓を見据えていた。

 「自社のブランドで良い製品を作り、国内の人びとに食べてほしいとの思いがあった」。同社相談役の桜井則人(78)は説明する。当時、輸出したツナ缶は主に現地のバイヤーの銘柄で販売されていた。「自社の良さを伸ばすためには、自前のブランドが必要だと社長は判断した」と語る。

 社員の営業を後押ししたのが、テレビコマーシャルによる宣伝だった。海にニワトリがいる−。そんな文句で始まるアニメ風のCMなどが六七(昭和四十二)年から、名古屋地区を皮切りに流れるようになった。

 「愛知県はそれ以前からミカンや白桃など、はごろも印の缶詰が売れていたエリアだった」と、同社で販売部門を長く担った大橋正明(71)は話す。有力問屋でつくる「中部はごろも会」の支えもあった。

 「海のニワトリ」のPRとともに、大橋らはさまざまな販売活動を続けた。地方市場での「朝売り」ではシーチキンを積んだトラックを場外の一角に止め、訪れる卸商らに試食をしてもらいながら即売した。

 料理講習会も開き、集合住宅の集会所で主婦を前にツナを使った料理を実演。「シーチキンを下さい、という声が徐々に増えていった」と大橋は思い返す。

    ◇

 日本の輸出産業にとって転機となった七一(昭和四十六)年のニクソン・ショック。その後、変動相場制に移って円高が進むにつれて、ツナ缶の対米輸出も下火になり、各社が国内販売を目指すようになる。

 輸出全盛のときに国内市場に舵(かじ)を切ったトップの決断。製造畑を歩んだ竹内秀夫(78)は「後藤社長の信念が現場に浸透していた。それに向かってわれわれも体を使ってツナ缶を作った」と自負する。

 従業員それぞれが、会社が業界のトップメーカーへと飛躍する時代を経験した。大橋は感慨深げに語る。「まさにシーチキンとともに、これまでを歩んできた」

 =文中敬称略

 

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