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静岡経済 特集

時代を超えて ツナ缶の物語<6> 輸出再開 順風の船出

戦後の工場の様子を語る村上英雄さん。米国へのツナ缶の輸出が好調だった=静岡市清水区で

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 工場の中は夜通し、熱気に包まれていた。ビンナガマグロの身を蒸す釜の火。立ち上る湯気。「水揚げシーズンの夏場は、夜が明けるまで働いた」。村上英雄(87)は戦後間もなく入社した清水食品の工場で、ツナ缶作りに汗を流した。

 戦時中、国策によって県内のメーカーは「静岡県缶詰」の一社にまとまり、一九四八(昭和二十三)年に解散した。各メーカーが再び生産を始め、新たにできた静岡缶詰協会には三十四の業者が加わった。

 戦前と同じく、ツナ缶を主に米国に、ミカン缶詰を英国に輸出した。「缶詰の輸出は、戦後の日本の発展の礎を築いた」と英雄は語る。

    ◇

 昭和三十年代初めの清水市(現・静岡市清水区)。舗装されていない道もまだ多く、トラックが走ると土ぼこりが舞った。

 ツナ缶作りは早朝から始まる。後藤缶詰の桜井則人(78)は午前四時ごろに起床し、会社の寮から近くの魚市場に向かった。

白い帆船が描かれた由比缶詰所の「ホワイトシップ」製品

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 後藤缶詰はそのころの社名で、後に「はごろもフーズ」となる。現在、同社相談役の桜井は「寮の大部屋で共同生活をしていた。起床時間には、下の階から竹ざおでつつかれて起こされることもあった」と話す。

 ビンナガは夏ごろに日本の近海を泳ぎ、漁師が一本釣りしたものが魚市場に並んだ。桜井らは仲買人が買い付けたビンナガを受け取ると、砕いた氷の入ったタンクに漬けてトラックで工場に運んだ。

 「人海戦術でツナ缶を作った」と桜井。ビンナガの身を釜で蒸し煮してから、手作業で骨や皮、血合いを取り除く。切った身を缶に詰めて密封し、さらに釜で熱を加えて殺菌する。

 「冷蔵技術があまり発達していなかったので、水揚げしたビンナガは短期間に加工する必要があった」。同社で製造畑を歩んだ竹内秀夫(78)は振り返る。夏はツナ缶、冬はミカン缶詰などと工場の生産ラインを替える作業にも追われた。

 マグロやカツオの水揚げ拠点だった清水市は、街中もにぎやかだった。映画館は数軒あり、商店街には屋台が並んだ。竹内は「会社の先輩に連れられて、お酒を飲むのが楽しみだった」と往時を懐かしむ。

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 戦後の国際通貨体制は、ブレトン・ウッズ協定に基づく固定相場制でスタート。「一ドル=三六〇円」の時代の幕開けとなった。

 ツナ缶の輸出はすぐに伸びた。「静岡県缶詰史」によると、五〇(昭和二十五)年には百四十五万箱を輸出。戦前のピークの二倍を超える量に達した。

 米国のツナ缶業者は反発を強め、日本側は摩擦を避けようと「日本鮪(まぐろ)缶詰輸出水産業組合」をつくる。年ごとに輸出する量を決め、各社で生産枠を振り分ける対策を始めた。米国が油漬け缶詰の関税を引き上げたため、塩水漬け缶詰を主に作るようにもなった。

 ビンナガは身が白いことから「ホワイトミートツナ」と呼ばれる。老舗メーカーの一つ、由比缶詰所は戦後から「ホワイトシップ(白い船)」の銘柄で作っている。

 社長の彦坂勝之(74)は名称にまつわる逸話を語る。「定かではないが、米国から来た黒船の逆、つまり日本から出て行く『白船』という意味を込めて、先代らが名付けたらしい」

 順風に帆を揚げた戦後のツナ缶産業。しかし、次第に逆風も吹き始める。

 =文中敬称略

 

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