トップ > 静岡 > 静岡けいざい > 特集 > 記事一覧 > 2015年の記事一覧 > 記事

ここから本文

静岡経済 特集

時代を超えて ツナ缶の物語<5> 産地包んだ空襲の炎

栗原民子さんが空襲当時を思い返し、描いた絵画。ホタルの明かりを頼りに親子で避難した=静岡市葵区の静岡平和資料センターで

写真

 暗闇の夜空を米軍の爆撃機B29が飛ぶ。もはや見慣れた光景だったが、この日は様子が違っていた。「逃げよう」。十五歳の民子は直感的に思った。

 一九四五(昭和二十)年七月七日。民子が住む清水地域(現・静岡市清水区)では既に、首都圏や名古屋方面を空爆するB29が毎晩のように飛んでいた。この日は数が多いように感じた。自宅があるのは清水駅からほど近い街中。家の庭の防空壕(ごう)ではなく、遠くへ逃げよう。母に声をかけ、二人の妹を連れて外に出た。父と弟は家を守るために残った。

 民子は幼い妹を乳母車にのせ、家屋や店舗が並ぶ通りを離れるように逃げた。数百メートル進んで水田に差しかかったとき、上空の機体が急降下したような気がした、次の瞬間。パッとあたりが明るくなった。轟音(ごうおん)。逃げてきた方角の市街地が一面、炎に包まれた。近くにも焼夷(しょうい)弾が落下。民子らは茶畑に逃げ、用水に入って夜明けを待った。

 夜が明けて戻ると、清水駅周辺は焼き尽くされ、大勢の犠牲者が出ていた。焦げた臭いが漂う市街地。民子の家も全焼したが、父と弟は助かった。

 その日の晩、民子と母らは親戚が所有する山寄りの小屋に避難した。途中、暗い農道を歩いていると、無数のホタルが光った。手ぬぐいで何匹か捕まえ、その明かりで足元を照らしながら一歩ずつ進んだ。

    ◇

 「空襲の様子は今でも夢に見る」。現在、八十五歳の栗原民子は静岡市駿河区で夫と暮らす。七十年がたっても、あの日の光景は記憶に残っている。

 戦時中、県内の缶詰メーカーは「静岡県缶詰」の一社にまとまり、肉や魚など軍用の缶詰を主に作った。清水には缶詰の工場が集まり、学校の生徒も駆り出された。商業学校の生徒だった民子も参加。「兵役のため働き手が減り、食料確保のために作業を手伝った」と振り返る。

 缶詰作りを中断した会社もある。山梨商店(現・山梨罐詰(かんづめ)、清水区)では飛行機のプロペラを製造した。会長の山梨恵一郎(91)は「慣れない作業で苦労も多かっただろう」と話す。当時の工場は空襲で焼失した。

 清水港周辺も爆撃され、缶詰を納めていた倉庫が燃えた。缶が膨張して不良品となったものが出ると、民子らにも配給された。「膨張缶と呼ばれた。近所から分けてもらうイモやカボチャなどと一緒に、貴重な食料となった」

 八月十五日。敗戦を知った民子は「悔しい」と思うよりも、「もう空襲は来ないんだ」と安堵(あんど)した。焼け落ちた自宅の庭に三枚の畳を並べ、トタンで囲って小屋を建てた。家族六人はしばらくその「三畳のおうち」で暮らした。

 焦土から再出発した一人一人の生活。静岡の缶詰産業もまた、焼け跡から一歩を踏み出す。

=文中敬称略

 <清水空襲> 1945年7月7日未明、B29が清水市(当時)中心部を爆撃し、151人が死亡した。県内では44年末ごろから、浜松や静岡など各都市が空襲の標的となった。県内全体の戦災死者数は調査によって違いはあるが、6000人近くに上ったとされる。

 

この記事を印刷する

中日新聞・北陸中日新聞・日刊県民福井 読者の方は中日新聞プラスで豊富な記事を読めます。

衆院選2017 静岡

新聞購読のご案内

PR情報

地域のニュース
愛知
岐阜
三重
静岡
長野
福井
滋賀
石川
富山

Search | 検索