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静岡経済 特集

時代を超えて ツナ缶の物語<4> 戦時中は1社に統合

戦地の兵隊に送った正月用缶詰のラベル(村上英雄氏提供)

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 日本で最初のツナ缶メーカー「清水食品」が誕生したのは、世界恐慌が起こった一九二九(昭和四)年。その後、日本が金本位制から離脱し、円相場が下落したことは対米輸出には追い風となった。高品質で安い日本製はよく売れた。

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 勢いを物語るのが、会社設立から八年目の社員旅行。タクシー七十三台を貸し切り、清水から伊東温泉までを日帰りで旅行した。

 清水食品の流れをくむSSKセールスの高橋勉取締役業務部長(52)は「タクシーの列は八キロにわたって続いたという。当時ならではの羽振りの良さだ」と話す。

 清水食品に続いてメーカーが誕生し、県内では十五工場に増えた。焦ったのは米国カリフォルニア州のツナ缶業者。日本製品の輸入を阻もうと三二(昭和七)年、米政府に関税引き上げを求める運動を起こした。貿易摩擦の先駆けだ。

 日本側の動きも速かった。清水食品社長で、国内メーカーでつくる組合の長も務めていた六代鈴木与平(故人)らが渡米し、現地の業者と交渉に臨んだ。

 「静岡県缶詰史」によると、鈴木は摩擦を避けるために「日本の生産を統制することが肝要」と結論し、各社に理解を求めた。国は三四(昭和九)年、輸出水産物取締法を公布。北米に輸出できるツナ缶の総量を決め、国内の工場で生産枠を分け合うようにした。

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 満州事変が起こった三一(昭和六)年ごろから、県内でも軍用の缶詰が作られるようになった。

 「缶詰の技術は戦争のたびに発達してきた」。ツナ缶作りの基礎を築いた村上芳雄(故人)の長男の英雄(87)は語る。魚や肉を長く保存できる缶詰は、日清戦争や日露戦争で生産を伸ばした歴史がある。

 日本は四一(昭和十六)年にツナ缶を含む食料の輸出を停止。その年に米国など連合軍と開戦し、太平洋戦争へと突入した。

 国策によって各県の缶詰業者は一社にまとまり、県内では株式会社「静岡県缶詰」ができた。牛肉や魚、野菜などの缶詰に加え、戦地に送る正月用の缶詰としてタイやエビなどを詰め合わせたものも作った。

 県缶詰は清水食品をはじめ、生産力の高い十三業者の工場を使って操業した。清水や焼津の工場が中心だったが、ウナギの缶詰を手がける浜名湖食品(浜松市西区)の工場も使われた。

 清水食品に在籍した村上は県缶詰の常務に就き、技術部門を担った。英雄によると当時、村上は軍に同行し、海軍基地があった南洋のラバウルを訪れた。

 「気候の異なる戦地でも腐らない缶詰を作るため、現場を調査したのだろう」と英雄は推測する。村上が戦時中にどのような思いで缶詰作りに従事したか、英雄は「本人から聞いたことはない」と振り返る。

 県缶詰史によると、各業者らがまとまって県缶詰をつくるとき、共同で設立趣意書を発表した。そこには「大東亜共栄圏」を確立する国家目的のために「産業報国ノ誠ヲ捧ゲントスルモノナリ」と言葉が並ぶ。

 「お国のため、天皇陛下のため、という考えは当たり前だった」。十代の少年だった英雄にとっても、それは自然な感覚だった。

 =文中敬称略

 

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