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静岡経済 特集

時代を超えて ツナ缶の物語<1> 戦禍知る 静岡のツナ缶

献立に欠かせないツナ缶が並ぶスーパーの店頭=27日、浜松市中区のフードワン佐鳴台店で

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 鶏肉のような食感に淡泊な味わい。サラダの具になり、パスタ、温かいご飯にも合う。食卓に欠かせない「ツナ缶」。全国どこのスーパーやコンビニ店にもある。あまりに身近で、気にかけることがない。

 健康志向で油を使わない商品も増えてきたが、本来は「マグロ類の油漬け缶詰」を指す。はごろもフーズ(静岡市清水区)の「シーチキン」が代名詞のように知られている。一九五八(昭和三十三)年に商標登録した。

 ツナ缶そのものは戦前からあった。日本で最初のツナ缶メーカーが清水市(現清水区)に誕生したのは二九(同四)年。その立役者となったのが、静岡県水産試験場(現・県水産技術研究所)にいた一人の若き技師だった。

    ◇  ◇

 静岡県はツナ缶の生産量が日本一。国内で生産するツナ缶のうち、九割以上を県内で作る。清水区や焼津市を中心にメーカーが集まる。

 各社はもともと米国などへ輸出をして栄えたが、今では国内向けが大半を占める。時代を超えて、国内外で食事の名脇役となってきた、ツナ缶の苦難と繁栄の物語を始めたい。

◆輸出へ試作乗り出す

青年時代の村上芳雄氏(長男・英雄氏提供)

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 「鮪油漬(まぐろあぶらづけ)缶詰ハ 将来世界的商品タリ得ベキ」

 静岡県水産試験場(現・県水産技術研究所)の若き技師、村上芳雄(故人)は一九二九(昭和四)年の事業報告書にそう記した。

 当時から、米国では現地のメーカーがツナ缶を販売し、人気を広げていた。村上は米国への輸出を目指して、この年からツナ缶作りに乗り出した。

     ◇

 村上は一八九八(明治三十一)年、相良町(現牧之原市)に生まれる。榛原中学校に通い、水泳など運動が得意な少年だった。

 現在、静岡市清水区で暮らす長男の英雄(87)は「中学のころはげたを履いて二里(八キロ)の距離を通ったという」と、父の少年時代を思い浮かべる。

 村上はその後、上京して水産講習所(現・東京海洋大)に進み、塩を使った水産加工法を学んだ。二十三歳で東京の製塩会社に入社し、中国に渡って塩田を管理していた。

魚をさばく村上芳雄氏(左)(長男・英雄氏提供)

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 転機は入社から二年後、一九二三(大正十二)年の関東大震災。本社が壊滅的な被害を受け、村上も失業した。静岡県に戻り、当時清水にあった水産試験場に引っ張ってもらった。

 国内では、すでに明治期から各地でイワシやサケ、マスなどの缶詰を作っていた。日清戦争や日露戦争の軍用缶詰として生産が増えた。同じ時期、米国では現地メーカーがツナ缶を売り出していた。

 村上は二九年の報告書で「マグロの油漬けは『Ocean chicken(海の鶏肉)』と呼ばれ、需要が著しく伸びている」と米国事情に触れている。

 米国のツナ缶に使われたのはビンナガ(ビンチョウ)という種類のマグロ。英雄は「清水ではビンナガは余っていた。身が柔らかく刺し身に適さず、漁師は釣っても喜ばなかったようだ」と話す。ビンナガは安く手に入った。

 ビンナガを加工して高く売ろう−。おそらく何人もがそう考えた。長崎県や和歌山県の水産試験場がツナ缶の研究を始めた。静岡県水産試験場も村上が入る前の二一年ごろに試作。しかし、海外で売れる品質の製品はできなかった。

 「製造技術、商習慣ノ調査」が不十分だったと、村上は分析している。ちょうど米国でビンナガが豊漁だった時期でもあり、価格でも国産は米国産に負ける。

 後に、ツナ缶作りの基礎を築いた村上が本腰を入れるきっかけとなったのが、技師になって三年目の二七(昭和二)年。「静岡県缶詰史」(静岡缶詰協会編)によると、全国の水産試験場の職員が集う会議で、農林省の技師江副元三が「マグロの油漬け缶詰の対米輸出は有望」と述べ、出席した村上の心を捉えた。

 実はその直前から、米国の漁場ではビンナガが記録的な不漁となっていた。原料の供給が減る一方、米国でのツナ缶の需要は伸びている。「愈々(いよいよ)本邦ヨリノ輸出有望トナリタル」。村上が中心となり二九年、ツナ缶作りが始まった。

=文中敬称略

(この連載は西山輝一が担当します)

 

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