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「有料」に多難の歴史 飯田と喬木結ぶ阿島橋

かつては料金徴収所があった阿島橋の飯田市側=飯田市座光寺で

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 飯田市と喬木村を結ぶ県道上飯田線の天竜川に架かる「阿島橋」。幹線道路のため、日夜多くの車両が行き来するが、完成した一九六六(昭和四十一)年から七年半ほどは「有料橋」だったため、利用車両は極めて少なかったという。当時を知る人などを訪ね、阿島橋の歩みを調べてみた。

 喬木村誌などによると、阿島橋の架かる飯田市座光寺と喬木村の間は、明治から昭和二十年代まで「阿島の船渡」があった。また冬の渇水期には木組みや飛び石で仮橋を造るなどし、不便な中、対岸との交通が続いていた。終戦後、喬木村や当時の座光寺村から架橋運動が盛り上がり、四九(同二十四)年に延長四十八メートルの木橋が県費補助もあり完成。しかし翌年には二度にわたり、天竜川が氾濫、橋は流出してしまった。

 その後、喬木村から遠山郷につながる「赤石林道」の建設が本格化したことから、五七(同三十二)年には市道と村道を県道に編入させたうえ、阿島橋の再建を望む声が持ち上がる。運動を重ねる中、打ち出されたのは、企業局が全国的にも珍しい「有料橋」として建設する計画。六四(同三十九)年二月の県議会では「採算の見通し」を危ぶむ意見もあったというが議決され、六六年七月、延長三七二・六五メートル、幅員六メートルの鉄橋が完成した。

 橋本体と両岸の取り付け道路約二・三キロを含めた総建設費は三億三千万円。これを二十五年間の通行料金収入で賄おうという壮大な事業がスタートした。

飯田市と喬木村を結ぶ阿島橋=喬木村側から

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 しかし、やはり有料は大きな足かせとなり、通行量はことのほか少なかった。喬木村誌から引いた主な車両種別の料金表は次の通り(表右)。「昭和の物価」のホームページから引用した七〇(同四十五)年のラーメン一杯百十円、新聞一月分七百五十円と比べても「ちょっと高いかな」と思う。

 当時、座光寺の自宅から喬木小学校に自転車で通勤していた小島稔さん(81)は「座光寺側にあった料金所で朝夕十円ずつ職員に支払って通った。通勤時間が短くなったのはうれしかったが、通行料金は痛手だった」と振り返った。

 阿島橋を間に約三・五キロ上流に明神橋、約三キロ下流には弁天橋(ともに無料)があったことも利用率低下につながった。喬木村誌には調査年こそ不明だが、三つの橋の交通量比較があり、阿島橋の利用率は全体の3・3%しかなかったことが分かる(表左)。

 喬木村歴史民俗資料館の大原成章館長(71)は有料橋だったころの思い出として「ほとんど車が通らないから、夜間照明がついた真っすぐな橋は、消防団の操法訓練場として最適だった」と話してくれた。

 有料橋の収支は当然、大赤字。七三(同四十八)年度末で累積赤字額は二億一千万円にもおよび、県は有料継続を断念。関係市町村から約六千万円の協力費を納付してもらう形で七四年四月一日から無料化された。

 地元は長年の陳情が実り大喜び。半面、交通量の増大による重大事故の多発など負の面もあり、悲喜こもごもの様子が、当時の地域広報紙に掲載されている。

 (須田唯仁)

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