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伊賀忍者、松江城下に 三重大・山田教授、江戸時代の絵図から分析

松平直政の時代の家臣名簿(島根県立図書館所蔵)には「忍者頭二人」「忍者三拾人」とある=山田教授提供

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山田雄司教授

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 伊賀流をはじめとする忍者ブームの中、史実を発掘して観光の起爆剤にしようと、全国の自治体で各藩に仕えた忍びたちの存在を解き明かそうとする動きが活発化している。そのひとつ松江市では、忍者研究の第一人者である三重大の山田雄司教授が江戸時代の松江城下町絵図を分析。伊賀者が「鉄砲隊」として備えていたことや、情報を探索する「早道(はやみち)」の存在が明らかになった。

 城下町絵図は江戸時代初期に描かれたもので、一軒ごとに家臣の名前が書かれている。伊賀者が住んだのは、山が迫る南西部の一角。「いが久兵衛」「伊賀久八」などと四十人近い伊賀者の名前が連なり、その中には「鉄炮(砲)場」の文字も見つかった。付近の山には忍者と関係の深い「愛宕神社」の文字もある。

 山田教授が注目するのは、伊賀者の居住地から少し離れた山ぎわにある「早道」という文字。弘前藩(青森県)に仕えた忍者集団「早道之者」の存在を示す史料より早い時代のものになるといい「ここだけあえて名前が書かれていない。いち早く情報収集するなど機密の役割を担っていたのではないか」と話す。

 絵図に描かれたころから三十年ほど後、一六三〇年代以降の家臣団名簿によると「忍者頭二人、忍者三拾(十)人」という記述がある。藩主が代わると、新しい忍び衆を連れてきたことが分かるといい「どこに住み、どんな活動をしていたのか明らかにしたい」と今後の調査に期待した。

 松江藩藩士の雨森(あめのもり)一族の存在も興味深い。島原・天草一揆で相手方が籠城していた城に夜忍び入って内部の絵図を作成したり、忍術書を入手して書き写したり、幕末に異国船の情報収集をしたりと「伊賀者ではないが代々忍び的な探索活動をしていた」という。

 山田教授はこれまでに佐賀県嬉野市から依頼され、地元の史料から忍者三人を認定している。

 (飯盛結衣)

 

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