斎宮跡(さいくうあと)から出土した、いろは歌が書かれた土師器(はじき)。表(おもて)(左)には「ぬるをわか」、裏(うら)(右)は「つねなら」のひらがなが読み取(と)れる=三重県明和(みえけんめいわ)町の斎宮歴史博物館(れきしはくぶつかん)で
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いろは歌って知っていますか? 今ではかるたぐらいでしか見かけなくなったけれど、長い間、日本語の読み書きを根(ね)っこの部分(ぶぶん)で支(ささ)えてきた存在(そんざい)です。1月、三重県明和(みえけんめいわ)町にある斎宮歴史博物館(さいくうれきしはくぶつかん)は「いろは歌が書かれた900年ほど前の皿(さら)の一部が斎宮跡(あと)から見つかった」と発表(はっぴょう)しました。ひらがなとしては最(もっと)も古いものです。
〔1〕 どこで?
いろは歌が書かれていたのは、土師器(はじき)と呼(よ)ばれる素焼(すや)きの皿(さら)の破片(はへん)。4つの破片をつなぎ合わせると、表側(おもてがわ)は「ぬるをわか」、裏(うら)側は「つねなら」と読み取(と)れます。皿全体(ぜんたい)として復元(ふくげん)すると、直径約(ちょっけいやく)9センチ、高さ約1センチと手のひらに載(の)るサイズです。
斎宮(さいくう)とは、7世紀(せいき)から14世紀まで伊勢(いせ)(今の三重県(みえけん))に置(お)かれていた、伊勢神宮(じんぐう)に仕(つか)える斎王(さいおう)の宮殿(きゅうでん)と担当役所(たんとうやくしょ)です。斎宮歴史博物館(れきしはくぶつかん)の立つ場所を含(ふく)め跡地(あとち)約137ヘクタールが国の史跡(しせき)に指定(してい)されています。1970年から発掘調査(はっくつちょうさ)が行われ、文字(もじ)が書かれた土器やすずりといった文具(ぶんぐ)などが数多く出土しています。
博物館は2010年に斎宮の中心部分(ぶぶん)を調(しら)べ、平安時代(へいあんじだい)のものと思われる溝(みぞ)から大量(たいりょう)の土器などを掘(ほ)り出しました。研究(けんきゅう)を進(すす)め、昨年(さくねん)12月に、見つかった皿の破片にいろは歌が書かれていたことが分かりました。
皿は、11世紀末(まつ)から12世紀前半の物(もの)。調査した博物館主査(しゅさ)の新名強(しんみょうつよし)さんは「平清盛(たいらのきよもり)が生まれたころ」と説明(せつめい)します。
これより古いいろは歌は、11世紀後半のお経(きょう)の読み方の手引がありますが、漢字(かんじ)である万葉仮名(まんようがな)で書かれています。ひらがなのいろは歌は、岩手(いわて)県で見つかった12世紀後半の木の板(いた)が最古(さいこ)で、斎宮跡の皿はこれを数十年さかのぼる発見となりました。
〔2〕 書いた人
南北朝時代(なんぼくちょうじだい)に途絶(とだ)えるまで、新しい天皇(てんのう)が位(くらい)に就(つ)くと、その娘(むすめ)や姉妹(しまい)らから斎王(さいおう)が選(えら)ばれ、斎宮(さいくう)に赴(おもむ)きました。斎宮では、多い時には男女合わせて500人以上(いじょう)が働(はたら)いていました。
見つかった皿(さら)の字は、美(うつく)しく細やかな筆遣(ふでづか)いです。同博物館学芸普及課長(はくぶつかんがくげいふきゅうかちょう)の榎村寛之(えむらひろゆき)さんは「伊勢(いせ)で雇(やと)われた女性(じょせい)が文字(もじ)を覚(おぼ)えるために練習(れんしゅう)として書いたのでは」と考えています。斎宮には、高い教養(きょうよう)を持(も)った女官(にょかん)が斎王に付(つ)き従(したが)って都(みやこ)から下っており、文字を教える先生には事欠(ことか)きませんでした。日本語の歴史(れきし)に詳(くわ)しい筑波(つくば)大名誉教授(めいよきょうじゅ)の小松英雄(こまつひでお)さんは「初心者(しょしんしゃ)の字ではない。女官自身(じしん)がお手本として書いた可能性(かのうせい)もある」と推測(すいそく)しています。
でも、どうしてお皿に書いたのでしょうか。当時、紙は一部(いちぶ)の人だけが使(つか)える高級品(こうきゅうひん)。一方、土器(どき)は儀式(ぎしき)や宴会(えんかい)用として大量(たいりょう)に生産(せいさん)され、使用(しよう)した後は捨(す)てられました。このため、使用済(ず)みの土師器(はじき)を紙代(が)わりに使ったようです。
〔3〕 歌の内容
いろは歌の作者(さくしゃ)は分かっていませんが、平安時代(へいあんじだい)の後期(こうき)に作られたと考えられています。ひらがなが生まれたのはその100年ほど前です。
かな47文字(もじ)が繰(く)り返(かえ)すことなく用いられているいろは歌。明治(めいじ)時代にあいうえおの「五十音順(じゅん)」にとって代(か)わられるまで、文字を学ぶ時の基本(きほん)として使(つか)われてきました。字引の索引(さくいん)も明治までは「いろは順」が普通(ふつう)。読み書きを学ぶ人にとって1000年近く、いろは歌は「いろはの『い』」だったのです。
すべての文字を並(なら)べている点では五十音順やABCのアルファベットと同じ。でも、歌の形を取(と)っているいろは歌には、仏教的(ぶっきょうてき)な教えが込(こ)められており、内容(ないよう)を通して日本人の心をも養(やしな)ってきました。
平安時代の文学史(し)を研究(けんきゅう)している岐阜聖徳(ぎふしょうとく)学園大名誉教授(めいよきょうじゅ)の所京子(ところきょうこ)さんは「12世紀(せいき)の中ごろには、都(みやこ)の貴族(きぞく)の子どもが10歳(さい)ぐらいで、いろは歌で文字を学んでいたことが記録(きろく)に残(のこ)っています」と言います。榎村(えむら)さんは「今回の発見(はっけん)は、ひらがなで書かれたいろは歌の歴史(れきし)や王朝文化(ぶんか)が京都(きょうと)から地方に伝(つた)わった状況(じょうきょう)を明らかにする手助(てだす)けになる」と期待(きたい)しています。
いろは歌の土師器(はじき)は斎宮(さいくう)歴史博物館(はくぶつかん)で、5月6日まで展示(てんじ)されています。月曜休館。有料(ゆうりょう)。電話=0596(52)3800
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