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おかっぱフジタ、27歳の自画像 パリで寄せ書き、宇都宮で発見

東京の住所とパリの下宿先住所「14 シテ・ファルギエール」の間に描かれた藤田嗣治のおかっぱ頭の自画像(寄せ書きの拡大)(C)Fondation Foujita/ADAGP,Paris&JASPAR,Tokyo,2018 E3034

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藤田嗣治

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 20世紀に欧州で活躍した日本人洋画家、藤田嗣治(つぐはる)が、27歳の時に描いたとみられるおかっぱ頭の自画像が宇都宮市内で見つかった。パリ滞在中の1914(大正3)年、友人の画家を送別する寄せ書きに添えたもので、藤田が多数描いたおかっぱ頭の自画像では確認されている中で最も古い。寄せ書きには作家の島崎藤村らも参加し、専門家は「日本の文化人の交流が分かる貴重な美術史料」と評価している。

 寄せ書きは、市内の女性の夫の遺品。生前、「学生時代(三九年ごろ)に都内の下宿先で知人にもらった」と話していたという。調査依頼された栃木県立美術館や研究者らが、いずれも本人の筆跡と確認した。

 縦二十七センチ、横二十センチの便箋のような紙に、藤田ら五人がインクで書いた言葉や絵が並ぶ。「大正三年二月 桑重君 巴里を去るの夜」と記され、友人の画家、桑重儀一が米国に渡航する際、「TOMOEYA」という日本料理店で開かれた送別会で書いたとみられる。

 藤田は、東京に残した妻登美子の住所とパリの下宿先住所を記した間に、おかっぱとチョビ髭(ひげ)の自画像を描いた。髪形がおかっぱになったと分かる最も古い記録はこれまで、一四年の「二月二十二日 巴里にて嗣治」と記した自身の写真だった。藤田は、妻への同月十日付の手紙で桑重の出立を伝えており、送別会は二月十日以前に開かれたとみられる。

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 独特の乳白色の肌の裸婦画などで当地の人気を博した藤田だが、渡欧したころは独自のスタイルを模索。ルーブル美術館にあるギリシャ彫刻の頭部などをまねておかっぱにしたとされる。妻への手紙では「黒い黒い毛で何処に行つても美術的でいゝ(い)と誉められてます」と自賛。第二次大戦中の一時期を除き、晩年まで同じ髪形を通し、自身のトレードマークとなった。

 島崎藤村は、「初恋」などを収めた詩集「若菜集」で人気の文学者となっていたが、女性問題を起こし一三年にパリへ渡り、藤田と同じ下宿に部屋を借りていた。寄せ書きでは、「春雨はいたくなふりそ旅人の道行ころもぬれもこそすれ(春雨よひどく降るなよ、旅の道中衣がぬれるといけないから) 藤」と金槐(きんかい)和歌集の源実朝の和歌を引用し惜別の思いを伝えている。

 (北浜修)

◆おかっぱ時期の最も古い史料か

 <藤田嗣治研究の第一人者で美術史家の林洋子さんの話> パリで存在感を示し、自身を売り出すためおかっぱ頭にした時期が分かる最も古い史料の可能性が高い。日本とパリの住所を併記した記述も他になく、妻を残し渡欧して間もない複雑な心中をうかがわせる。島崎藤村はパリ滞在中、藤田と同じ下宿屋に住んだ。両者の交流は文献で知られているが、実際に同じ送別のテーブルを囲んだことが実感でき、非常に面白い史料だ。

 <ふじた・つぐはる> (1886〜1968年)東京生まれ。東京美術学校(現東京芸大)卒後、13年に渡欧。エコール・ド・パリ(パリ派)の日本人唯一の画家として活躍。第2次大戦中は軍嘱託画家として戦争画を描いた。50年にパリに戻り仏国籍を取得。スイスで死去。フランス・ランスに自ら築いた礼拝堂に眠る。ランス市と名古屋市は互いの美術館が藤田の作品を所有している縁で交流を深め、2017年に姉妹都市提携を結んだ。

 

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