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名古屋空襲、周到に計画 米軍、1年前から爆撃地図

1943年に米軍が作成した焼夷区画図。濃い赤色部分がゾーン1、薄い赤色がゾーン2。この計画に基づき精密な空爆が行われた=米国立公文書館の資料から

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米軍が1945年5月14日に撮影した名古屋空襲。B29から投下された焼夷弾(中央上)で名古屋城(同下)が炎上している

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 太平洋戦争中の一九四四(昭和十九)年末から本格化し、四五年八月の敗戦まで無差別爆撃が繰り返された名古屋空襲で、米軍は空襲を始める少なくとも一年以上前の四三年秋、市街地の燃えやすい場所など被害が大きくなりやすい地域を選び、段階的に爆撃する計画を練り上げていたことが米軍の公文書の分析から分かった。米軍はこの計画に基づいて名古屋を焼き尽くし、八千人近い住民が犠牲になった。

 「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議」の事務局長で、「日本の都市を焼き尽くせ!」の著書がある工藤洋三さん(68)=山口県周南市=が、米国国立公文書館が開示している米軍資料などを分析した。

 米軍が四三年十月に作成した「名古屋焼夷(しょうい)区画図」によると、現在の名古屋市中区、東区、西区、中村区に当たる中心市街地を、労働者住宅や商店街が密集し、燃えやすい「ゾーン1」とし、ここを囲むように住宅地が広がるエリアを「ゾーン2」と色分けして指定した。

 米軍は四五年三月十二日と十九日の空襲で、まずゾーン1を目標に、爆撃機B29を使って集中的に焼夷弾を投下。二カ月後の五月十四日にゾーン2の北部(主に北区)、同十七日にゾーン2の南部(主に熱田区)に焼夷弾を落とした。これで名古屋市は市街地がほぼ焼き尽くされた。その後、焼夷弾による攻撃は止まった。

 名古屋焼夷区画図では、ゼロ戦など軍用機の製造に関わっていた三菱重工名古屋発動機製作所(東区)や愛知時計電機(熱田区)、三菱重工名古屋航空機製作所、住友金属名古屋軽合金製造所、愛知航空機(いずれも港区)など軍需工場も重要な攻撃対象とされた。特に名古屋発動機製作所は四四年十二月十三日〜四五年四月七日に計七回の爆撃を受けるなど継続的に狙われた。

 名古屋焼夷区画図が作成された四三年十月は、米軍が後にB29の出撃拠点となったグアム、サイパン、テニアン島の日本軍を陥落させる一年近く前で、まだB29は実戦配備されていなかった。同時期には東京、大阪、神戸など全国二十都市の爆撃計画を立てていたことも分かっている。工藤さんは「米軍は戦争の早い段階から、日本の都市を焼き尽くすための情報を収集し綿密な計画に基づいて攻撃したことが分かる」と話す。

 名古屋空襲に詳しい空襲史研究者の金子力(つとむ)さん(67)=愛知県春日井市=は「航空機のエンジンを製造するなど重要な工場があった名古屋に対し、米軍は大規模な火災をつくり出して市街地を焼き払い、戦争継続の力をなくすため東京と同規模の空襲を加えたのだろう」と話している。

 (中尾吟、塚田真裕)

 <名古屋空襲> 軍用機を製造する工場が集まっていた名古屋市は米軍の爆撃が63回にわたって繰り返され、13万5416戸が被害に遭った。1945年5月14日の空襲では名古屋城が焼失した。B29による空襲は延べ2579機。投下された爆弾・焼夷弾の重量は1万4500トンで、そのうち焼夷弾が約1万トンと推定される。焼夷弾は建造物を焼く目的で油などを詰めた爆弾や砲弾を指し、戦争末期に木造家屋の密集する日本の都市攻撃に使われた。

 

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