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帰れぬ戦災遺骨40万体 国内犠牲者の半数以上

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 太平洋戦争の空襲や沖縄戦など国内の戦災で犠牲になり、遺族に引き取られていない遺骨が全国三十六カ所に計約四十万体あることが、自治体や寺院などへの本紙取材で分かった。六十万〜七十万人とされる国内の戦災犠牲者の半数以上になる。八日で太平洋戦争の開戦から七十六年。国は海外で軍人の遺骨は収集しているが、民間人の戦災遺骨の収集、管理については寺院や地域任せの実態が明らかになった。

 一家全滅や身元不明で引き取り手のない戦災犠牲者の状況を知るため、本紙は「東京大空襲・戦災資料センター」(東京都江東区)の調査で空襲による犠牲者が百人以上だったとされる八十五都市と沖縄県を中心に、都道府県や市区町村、寺院などに聞き取り調査を実施。それぞれが管理している遺骨数を積み上げた。沖縄戦など軍民の区別が困難な被災地では、軍人・軍属の遺骨も含まれていた。

 納骨施設は、国が設置している唯一の納骨施設である国立沖縄戦没者墓苑(糸満市)のほかには、自治体の墓地や公園が十七カ所、寺院十二カ所、住民・遺族会関連施設五カ所、詳細不明の無縁墓地一カ所の計三十五カ所あった。

 空襲の遺骨は東京都が最多で、墨田区の都慰霊堂と弥勒(みろく)寺に計約十万八千五百体を安置。岐阜市では、岐阜空襲の犠牲者の遺骨三百八十七体が市営上加納山墓地近くの供養塔に眠る。神奈川県横須賀市の旧海軍墓地には、豊川海軍工廠(こうしょう)(愛知県豊川市)の空襲死者の遺骨三十二体などが埋葬されている。長崎原爆の遺骨は長崎市の追悼祈念堂(約九千体)、真宗大谷派長崎教務所(一万〜二万体)など三カ所。推定数しかない場所も多い。

 一方、犠牲者が千人以上の津、福井、高松市を含め、被災都市のほとんどが、引き取られていない遺骨の情報を「把握していない」としている。約八千人が死亡した名古屋市でさえ、「遺体は市の二カ所の火葬場では処理できず、市の塵芥(じんかい)焼却場で焼かれた」(名古屋空襲誌)という証言はあるが、その後の行方は市も愛知県も把握していない。

 旧軍人の海外の戦没者は厚生労働省が遺骨を収集し、遺族に引き渡したりしているが、同省担当者は「職業軍人を海外に送ったことの後始末。空襲犠牲者の遺骨は収集していない」と説明。東京大空襲・戦災資料センターの山辺昌彦主任研究員は「国と自治体で全容把握を急ぐべきだ」と話す。

 (橋本誠)

◆岐阜空襲で犠牲の387体、仏教会が供養

供養塔を管理する寺町研山さん=岐阜市上加納山で

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 一九四五年七月九日夜から十日未明にかけての空襲で、約九百人が犠牲になった岐阜市。家族全員が亡くなるなど引き取り手のなかった三百八十七人の遺骨は、岐阜市南部の市営上加納山墓地近くにある「萬霊(ばんれい)供養塔」に眠っている。

 供養塔を管理する岐阜市仏教会の元会長、寺町研山さん(84)=同市粟野=によると、身寄りのない遺骨は当初、上加納山墓地にあった小さな谷に埋められた。終戦後、仏教会が霊を弔うとともに、戦争の悲惨さと平和への願いを後世に伝えなければと供養塔の建立を決定。四八年に完成させた。供養塔は高さ三・五メートル。碑には「天寿を全うし得ずして戦争の犠牲となり(中略)鬼籍に入りし人々のことを思ひ来らば慟天哭地の念」などと刻まれている。

 仏教会は、命日の七月九日と春、秋の彼岸に供養の会を営んできた。しかし、岐阜空襲を知る人が少しずつ世を去り、参列者が減ったことから、五十回忌以降は命日だけの開催にした。

 空襲から七十二年がたち、仏教会の役員でも建立のいきさつを知らない人もいる。寺町さんは「法要を続け、空襲の記憶と平和の大切さを次の世代に受け渡していきたい」と話す。

 <岐阜空襲> 130機の米軍爆撃機B29が岐阜市とその周辺に焼夷弾(しょういだん)を投下。街は炎に包まれ、2万戸を超える家屋が焼失し、10万人近くが被災した。

 

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