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<「命のビザ」の問い掛け>(3) 信念、勇気どう受け継ぐ

「杉原は暗闇の中の光だった」。昨年6月にできた「杉原ストリート」で語るハバ・アペルさん=イスラエルのネタニヤで(奥田哲平撮影)

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 地中海を望むイスラエル中部ネタニヤの小さな道に「杉原ストリート」の標識が建てられたのは昨年六月のことだ。ネタニヤには、杉原千畝(ちうね)が発給した「命のビザ」で迫害から逃れ、移り住んだユダヤ人と子孫が多い。「杉原のおかげで命をつないだ人々がイスラエルにいる。それを知ってほしい」。生存者らの記録を後世に残そうと活動しているネタニヤ市博物館長のハバ・アペル(64)は語る。

 ポーランド出身の父は、杉原ビザを得た一人でリトアニアから日本に逃れ、神戸港から当時英国の委任統治領だったパレスチナに向かった。入植したネタニヤ北部では二十五〜三十家族がまとまって暮らし、子どもたちは日本の子を意味する「ヤパンチキ」という愛称で呼ばれていた。約四十年前に亡くなった父はナチス・ドイツのホロコースト(ユダヤ人の大量虐殺)で両親と妹を失っていた。「なぜ自分だけ助かってしまったのか」と悔いていた。そんな胸の内を、昨年亡くなった母から聞いた。「つらすぎる過去を封印し、新しい国造りに力を注いでいたのでしょう」

 アペルは五年ほど前、ネタニヤ市長が地元紙で情報提供を呼び掛けたのを機に父の足跡と杉原の功績を意識した。「まだ埋もれている物語がたくさんある」と、今は生存者らの資料や証言録を集めている。市内の高校では「命のビザ」をテーマにした美術創作の授業が始まった。

 イスラエル全体に目を向ければ、杉原は特別に有名な人物ではない。同国が第二次世界大戦中にユダヤ人を救った人物を表彰する「諸国民の中の正義の人」は、杉原を含め世界中で二万六千人に上る。エルサレムにあるホロコーストを伝える博物館「ヤドバシェム」には、杉原の記述は見当たらず、敷地内の松の根元にネームプレートが飾られるのみだ。

 杉原の精神とは裏腹に、その建国がパレスチナ難民を生み出した悲劇の連鎖は解決の道筋が見えない。内戦で五百万人の難民が流出した隣国シリアとの緊張という現実もある。

 杉原ビザを得た生存者のベルティ・フランクル(80)も「イスラエルはイスラム教徒の国に取り囲まれた小国。シリアが起こした内戦で、何か手助けしたいとは思わない」と言った。

 一方で、別の生存者のニナ・アドモニ(84)は今、杉原がいたら「その信念で行動したのではないか」と想像する。孫の大学生ガル・パールマン(26)は昨年、「国同士のいさかいがあっても、人間として困った人を助けてあげたかった」とトルコに逃れたシリア難民の支援活動に参加している。

 「若い人には、心から正しいと思ったことをする勇気を杉原から学んでほしい」とアドモニ。杉原の心をどう引き継ぐかが問われている。 =敬称略

ニナ・アドモニさん(左)が降り立った福井県の敦賀港を、孫のガル・パールマンさんは昨年訪れた=イスラエルのテルアビブで(奥田哲平撮影)

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