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共創 アジアへ

第4部 続・トヨタ 道を知る(7)

サービス担当の従業員に積極的に声をかけるカールさん(右)=バンコクのトヨタ・トンブリで(山上隆之撮影)

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 会場中央の大型スクリーンに、タイトヨタが「伝説の人たち」と呼ぶ九人の姿が次々に浮かぶ。日本、米国に次ぐ三カ国目の累計生産一千万台を達成し、七月十一日に首都バンコク近郊のサムロン工場で記念式典が開かれていた。半世紀を超す足跡を振り返る約八分間のビデオ映像に、政府高官や取引先の来賓二百人の目が注がれた。

 「タイ国内百五十五社の販売店にとっても一千万台達成は誇りだ。今後も顧客に最高のサービスを提供していく」。映像中のインタビューでカール・オッペンボーン(59)はこう答えた。

 義父が一九七九年に設立した販売会社トヨタ・トンブリの社長を受け継ぎ、バンコクを中心に十三カ所のショールームを構える。毎朝八時半に出勤し、一時間以内に書類すべてに目を通してから、少なくとも二カ所のショールームを訪ねるのが日課となっている。

 「現地現物」をトップ自らが率先する。本紙の取材に「現場のスタッフたちと話をする時間が至福のひととき。顧客から直接、苦情を言われることもあるけどね」と笑う。

 販売会社ウォラチャックヨントの取締役ターウォーン・スワンワニチキ(63)は、ビデオ映像で「当社の方針は顧客に対し、常に正直であること」と掲げた。トヨタ自動車が初の海外支店をバンコクに設けた二年後の五九年、ターウォーンの父が創業した古参の販売店でもある。

 九七年のアジア通貨危機後、タイトヨタは販売が激減して赤字を計上した。翌年に資本金を八倍に増やす際、現地で出資辞退が相次いだが、ウォラチャックヨント社は満額で応じた。トヨタが困っていたら助ける。「生きていたら、そうするだろう」。他界していた父の意を息子たちがくんだ。増資で得られた資金は、経営に苦しむ販売店や部品メーカーへの支援にも充てられた。

 販売店も初めは雑貨屋や精米業などを営みながらトヨタに注文を取り次ぐ店が多かった。家族経営がほとんどで、リスク管理も旧態依然だった。今ではカールやターウォーンら欧米留学帰りの二代目三代目が、力を養いながら体質強化を図っている。トヨタの店同士の競争も激しくなった。

 タイトヨタ社長の菅田道信(57)=トヨタ常務役員=は、最初にタイで勤務した二〇〇六年から三年間、国内販売の責任者を任され、各地の販売店を飛び回った。新興国向け世界戦略車「IMV」シリーズは立ち上げ間もないころで、輸出が優先されていた。「販売店から『売る車がない。なんとかしてくれ』としかられました」と懐かしむ。

 タイ市場で約三割のシェアと販売トップを続けるのは、長年にわたって販売店と手を携えてきた証し。菅田は一七年四月に社長となり再び赴任すると、前回勤務から三十社以上増えた販売店をあらためて行脚している。

 IMV主力のピックアップ(荷台付き)トラックは、農産物や農機具を運ぶ田舎の働くクルマから、都市の街中を疾走するしゃれたマイカーとしての利用が増えてきた。

 変わりゆく消費者需要にきめ細かく応える近道は「販売店の声をしっかり聞くこと」と信じている。

 (文中敬称略)

 

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