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共創 アジアへ

第4部 続・トヨタ 道を知る(5)

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 日本の自動車業界が東日本大震災の被害から立ち上がり、挽回生産がピークに入っていた時だった。二〇一一年十月、インドシナ半島を台風が相次いで直撃し、タイは「五十年に一度」の大洪水に見舞われる。

 「被害の状況を一緒に確認してほしい」。バンコク日本人商工会議所の幹部らは、キティラット副首相(当時)の求めでヘリに飛び乗った。バンコクから北へ約六十キロ。ホンダなど多くの日本企業が工場を置く中部アユタヤ県の工業団地は、濁流にのみ込まれ、屋根しか見えない。「世界に影響が及ぶ」。重たい空気が機内に充満した。

 タイは日米の自動車関連企業の集積が進み、世界でも指折りの車の生産拠点となっていた。ところが、みるみる広がる浸水で部品の供給網が寸断され、日本の自動車メーカー八社の四輪工場はすべて止まった。被災しなかったトヨタ自動車も全三工場で操業を停止し、減産がインドネシアやフィリピン、さらに遠く離れた日本、米国へ広がった。

 とりわけ車の制御をつかさどる電子部品は、大きなネックになった。タイ最大級のナワナコン工業団地(パトゥムタニ県)では日本大手の現地工場が浸水し、供給が断たれた。

 この工場に、日本自動車工業会(自工会)は十一月、支援隊を派遣する。会社の枠を超えて選抜された約四十人で、中越沖地震や東日本大震災を経験した精鋭ぞろい。リーダーを務めたトヨタの牛島信宏(52)は「一つでも電子部品が足りなければ車は造れない」と肌で感じてきた。東日本大震災では半導体などの供給が止まり、車両生産の再開が遅れた。

浸水した電子部品メーカーの工場から引き上げた金型を運ぶ「トヨタ丸」=2011年、タイ中部のナワナコン工業団地で(新美史朗さん提供)

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 支援隊が停電で薄暗い工場にボートで入ると、三階建て建物の一階は腰の高さまで水があった。到着前は、沈んだ設備を引き上げ別の場所に生産ラインを移すことを考えたが、牛島は「インフラの復旧が最優先」と判断する。自家発電機やガスタンクをボートで搬入し、コンクリートでせき止めた水をポンプでくみ出した。

 取引先からも有志が集まり、部品成形の基となる金型の搬出に当たった。活躍したのは、発泡スチロールの分厚い板に鉄板を載せた即席の船だった。タイトヨタのサムロン工場で手作りされ、「トヨタ丸」と呼ばれる。

 浮力などを計算して設計した設備管理会社「サンエイ」(愛知県刈谷市)の新美史朗(51)は振り返る。「自動車業界は結束力が強く、災害時の経験値も高い」。濁った水の中から、重さ五百キロ以上もの鉄の塊の金型をリフトで引き上げ、トヨタ丸で救出した。

 電子部品工場の従業員は、オールジャパンの助けに感謝しつつ、機械をドライヤーで乾かすなど、上層階でトランジスタやダイオードの生産を再開した。浸水から約四十日後、初の完成品を別のボートで出荷した際は、ささやかにテープカットで祝った。

 牛島は「在庫を極力持たないのがトヨタ生産方式。止まったら早く動かさないと。その辺は鍛えられている」と言う。自工会宛ての日報には、働きづめの電子部品工場の従業員をねぎらう言葉をつづった。

 「11月26日 生産再開後、初出荷へ 徐々に量産体制に入る中、ローカルメンバーの士気も向上中」

 (文中敬称略)

 <タイ大洪水> 2011年7月からタイ東北部で被害が始まり、相次ぐ台風などでチャオプラヤ川が氾濫し、10月には中部の工業団地が被災。バンコク市内の一部も冠水した。日本から進出していた約400社が操業停止などの影響を受け、トヨタ自動車は約40日間、現地生産を停止した。洪水による死者は800人を超えた。

 

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