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共創 アジアへ

第4部 続・トヨタ 道を知る(4)

初の「IMV」発表会で「ハイラックス・ヴィーゴ」を囲む佐々木良一タイトヨタ社長(左)や豊田章男トヨタ自動車専務(右)ら=2004年8月、バンコクで(肩書はいずれも当時)

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 二〇〇三年夏、会議室の重苦しい空気を振り払うように、タイトヨタの現地幹部が上級副社長だった三島康博(67)に進言した。

 「われわれはやります。日本側に『やれる』と伝えてください」

 トヨタ自動車の世界戦略車「IMV」シリーズの始動が、わずか一年後に迫っていた。部品の調達から車両の生産、輸出を新興国の間だけで完結させる初のプロジェクトだった。

 東南アジア諸国連合(ASEAN)域内などで関税撤廃の動きが進む中、トヨタはIMVを百四十カ国以上に投入し、世界販売の底上げを目指した。当初はインドネシア、アルゼンチン、南アフリカなど十カ国で車両生産を計画し、その先頭打者に指名されたのが、歴史が長く、品質にも定評のあるタイだった。

 ところが、第一弾のピックアップ(荷台付き)トラック「ハイラックス・ヴィーゴ」の試作で、思わぬ事態に直面する。通常の三倍に上る三千カ所もの設計変更が生じたのだ。山のような書類は、砂漠や寒冷地、山間部など異なる過酷条件を同時にクリアする難しさを物語った。日本のトヨタ本社では「立ち上げ時期を遅らせるべきではないか」との見方が広がった。

 それでもタイトヨタではIMVに光明を見ていた。一九九七年のアジア通貨危機後、雇用への不安がくすぶっていた。会長のニンナート・チャイティーラピンヨウ(71)は「タイ政府も投資、雇用、技術移転、輸出の促進と、あらゆる面で期待していた」と振り返る。

 「日程通りにやります。任せてください」。三島の日本への報告が号令となり、対応は加速する。部品の仕入れや輸出に向けた手続きなど、課題を書いた紙が張られたオフィスに、担当者は日付が変わるころまで詰めた。金型や設備の微修正は部品メーカーと一緒に進め、設計変更を一つ一つクリアした。

 新興国で売るIMVは低価格が大前提で、日本から部品を運べば高くつく。日本企業にはタイ進出を、地場企業には新領域への挑戦を呼び掛け、半分程度だった現地調達率を90%以上に引き上げた。部品メーカーでつくるタイトヨタ協力会の前会長マノー・リーゴモンチャイ(77)は「輸出は初めてだった。一つのモデルで五百種類もの部品を用意した」と当時を語る。

 輸出先の販売店からは品質への懸念も出た。タイトヨタは独自の取り組みで万全を期す。生産途中に不良をチェックする関門をいくつも設け、出荷前には必ず車をコースで走らせた。

 〇四年八月二十五日、ハイラックス・ヴィーゴがバンコクでお披露目された。トヨタ専務で担当トップの豊田章男(62)=現社長=は「世界の自動車産業史の新たな一章をひらく一日だ」と力を込めた。

 世界各地の売れる条件を満たす品質と、高級車並みの内装でも価格を抑えた低コストの両立が、これまでと違った景色を見せた。タイトヨタ社長だった佐々木良一(70)は、千四百人の報道陣の熱気に圧倒されつつ、思い描いていた。「タイのものづくりの世界が変わろうとしている」

 生産や調達を指揮した三島は従業員と仕入れ先の関係者を集め、マラソンに例えて訴えた。「まだスタートライン。これからはタイが転べば、世界中の車が止まる。全員で走りきろう」。真の世界生産拠点へ。確かな一歩を踏み出した。

 (文中敬称略)

 <IMV> 英語の「イノベーティブ・インターナショナル・マルチパーパス・ビークル」の頭文字に由来。アジアではエンジンはタイ、インドネシア、変速機はフィリピン、インドと基幹部品の分業生産も進んだ。ヴィーゴは、ピックアップトラックのシリーズ名。ほかにミニバン、スポーツタイプ多目的車(SUV)もあり、IMV累計販売は1100万台を超えている。

 

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