トップ > 特集・連載 > 共創 アジアへ > 記事一覧 > 記事

ここから本文

共創 アジアへ

第4部 続・トヨタ 道を知る(3)

プミポン国王(左から2人目)からの依頼を受け、生産したソルーナを献上するニンナートさん(右)=バンコクの王宮で(1997年の撮影当時、タイ王室事務局からタイトヨタに提供)

写真

 使命は「タイ人による、タイのための車」だった。一九九三年、タイトヨタで若い家族が買いやすい車づくりが動きだす。前年に四十代半ばでタイ人初の取締役となったニンナート・チャイティーラピンヨウが現地の開発責任者を任された。

 ニンナートがプミポン国王(当時)に拝謁して報告すると、こう言葉をかけられた。「洪水の水位が高いところでも運転できる車があったら、便利なのに」

 タイはたびたび洪水被害に見舞われる。ある日、国王が自らハンドルを握り、首都バンコクの王宮近くの現場を視察しようとしたところ、王室職員に制された。そんな出来事も明かした国王は「水をかぶってもエンストしないように、空気取り入れ口と電子部品の位置を高くしてはどうか」と提案した。

 日本から主要部品を輸入し、現地で組み立てる従来のノックダウン生産では困難だった。部品の現地調達率を70%まで引き上げて国王の期待に応え、九七年一月に小型乗用車「ソルーナ」が発売される。価格は三十二万七千バーツ(約百五十三万円)からと、日系の現地生産車では最も安い。販売開始から三日間だけで約二万九千台の予約を受けた。

 半年後の七月、タイ通貨バーツの暴落をきっかけにアジア通貨危機が起き、自動車市場が急速に冷え込む。タイトヨタは二カ所目の工場をバンコク近郊のゲートウェイに新設し、生産能力を引き上げたばかりだったが、大幅な減産を余儀なくされた。「トヨタが工場を閉鎖し、五千五百人の従業員も解雇される」。生産撤退のうわさまで流れ、現場に動揺が広がった。

 十一月五日には経営陣が記者会見し、うわさを否定した。翌日、ニンナートに電話が入る。「国王がソルーナの購入を望んでおられる。従業員を長く職に就かせるため、手作業でもいいからゆっくりと造ってほしいとおっしゃっている」。国王の秘書からだった。

後部エンブレムをタイ語で造ったソルーナは500台限定で販売もされた=タイトヨタ提供

写真

 国王からの注文は工場の士気を高め、自宅待機中の従業員も出勤した。車体を特注のライトブルーで塗り、後部のエンブレムはあえてタイ語の文字で仕上げた。一カ月ほどで完成し、王宮へ運んだ。

 国王はスーツの内ポケットから、六十万バーツの小切手を差し出す。ニンナートが献上したいと伝えると、国王は「それではこのお金を活用し、トヨタの技術で精米工場をつくり、農家を助けてもらいたい」と再び提案した。

 多くの農家が当時、仲介業者に安く買いたたかれていた。タイトヨタは販売店などに呼び掛けて精米会社を設立し、国王からのお金を資本金に組み入れた。今もゲートウェイ工場の一角で操業が続く。

 トヨタ自動車が米国発端の大規模リコール(無料の回収・修理)で揺れた二〇一〇年二月には、トヨタ名誉会長の豊田章一郎(93)がバンコクの病院で療養中の国王を見舞った。現状の説明を聞いた国王は言った。「ほかの国は知りませんが、私とタイ人はトヨタ車に対して、何ら不安は持っておりません」

 政治対立など数々の国難を救い、「国父」と慕われた国王は一六年十月、八十八歳で死去する。トヨタにとっても、苦しい時に救いの手を差し伸べ、信頼を寄せ続けてくれた存在だった。

 一七年四月からタイトヨタ会長を務めるニンナートは言う。「国王の特注車をつくることができたのは全従業員の誇りです」

 (文中敬称略)

 <ソルーナ> アジア専用車として「ターセル」をベースに開発された。排気量1500cc。車名はスペイン語で「太陽」と「月」を意味する言葉を合わせた。後継として2002年に発売した「ヴィオス」は、東南アジア諸国などにも販売され、全面改良を重ねている。

 

この記事を印刷する

新聞購読のご案内

PR情報

地域のニュース
愛知
岐阜
三重
静岡
長野
福井
滋賀
石川
富山

Search | 検索