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共創 アジアへ

第4部 続・トヨタ 道を知る(1)

1975年夏、工場内の仏塔のそばで取材に答える林定一さん=タイ・サムロンで

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 戦後、トヨタ自動車のアジア事業はタイから本格化した。相次ぐ苦難に直面しながら現地で根付き、今では「世界のトヨタ」の主要拠点となった。「共創 アジアへ」第四部は、タイでトヨタがさまざまな協力先と手を取り、険しい道を乗り越える歩みをひもとく。

 太平洋戦争が終わったインドシナ半島で、死線をさまよう若者がいた。

 二十代になって間もない林定一(さだいち)は、ビルマ(現ミャンマー)の首都だったラングーン(現ヤンゴン)で敗戦を知る。それまでの連日四十キロの行軍がたたったのか、日本へ戻るためタイへ移動中、マラリアにかかった。

 道すがらタイ北部で行き倒れとなる。地元の家庭に運良く助けられ、手厚い看病を受けて命をとりとめた。三年も世話になるうち、多くの残留日本兵が次々と故郷へ帰っていく。福井市出身の林は「取り残された」と感じた。なおさらタイ人の優しさが身に染みた。

 「この恩に報いるにはどうしたらいいか」。救ってくれた人に尋ねると、仏門へ入るよう勧められ、僧侶となって八年を過ごした。

 仏教国タイの文化や言葉を学んだ林は俗世間に戻る。三井銀行(現三井住友銀行)のバンコク支店に六年勤め、トヨタ自動車の現地法人「タイトヨタ」へ入社した。

 戦後のトヨタは、アジアを重点に輸出を再開した。復興途上の日本と同様、悪路に強くて価格が安い車が求められている。そんな考えが創業者にして社長の豊田喜一郎にあった。

 喜一郎の死後も方針は受け継がれる。タイを東南アジアの有望市場と位置づけ、一九五七年、海外初の支店をバンコクに構えた。六二年にはタイトヨタが誕生し、現地で製造も担っていく。

 最初の工場は、バンコクから二十キロ東のサムロンに建つ。まだ辺りは農地に囲まれていた。六四年には「ティアラ」(日本名コロナ)や小型トラックの車両組み立てが始まった。

 林は工場の管理職として、日本人幹部とタイ人従業員の間を取りもった。タイ人従業員は農業からの転職がほとんどで、工場での勤務は皆無だった。林はタイの事情に明るいことから、世話役も期待された。

 現タイトヨタ会長のニンナート・チャイティーラピンヨウ(71)は「林さんを尊敬していたし、いろいろと教わった」と懐かしむ。大学で機械工学を学び、七一年に入社するとサムロン工場の配属となった。

 油まみれになって車のボルトを締めていた当時、林にかけられた言葉を今も覚えている。「君が良いリーダーになるには、人の話をよく聞いてあげなさい」。自らの心を開いて、さまざまな立場の意見に耳を傾ける大切さを説かれた。

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 タイでは労働者が権利意識を強め、ストライキが各地で多発するようになる。近くの工場の従業員がトヨタの従業員にストを誘う動きもみられた。

 時には部品の供給が滞ったものの、トヨタではストは起きず、林には「大きな誇り」となった。日本人上司とともに、従業員ひとりひとりに心を配り、家族同然の結び付きを求めてきた経緯があった。

 敗戦から三十年後の七五年夏、五十歳になった林は自らの半生を本紙に語った。トヨタの創立四十周年記念文集にも七六年時点のタイトヨタ製造部次長として寄稿したが、その後の消息は分かっていない。

 ニンナートは林に思いをはせる。「タイと日本の文化の違いを乗り越える懸け橋となった方でした」

 (文中敬称略)

 

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