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共創 アジアへ

第3部 海峡を越えて(4) JR東海

日本の新幹線技術が導入された台湾新幹線=2016年、台湾・高雄の左営駅近くで(小柳悠志撮影)

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 白い車体にオレンジと黒の帯をまとう高速鉄道が、台湾を南北に駆け抜ける。とがった先端に象徴されるシルエットは東海道新幹線にそっくり。台湾高速鉄道は「台湾新幹線」とも呼ばれる。

 「東海道新幹線の弟のような存在」。JR東海の輸出担当部長、八多(はった)義徳(53)は台湾高鉄を血を分けた兄弟に例える。なのに、西洋の装いもまとっていた。

 日本と欧州が熾烈(しれつ)な受注競争を繰り広げた経緯がある。いったんドイツとフランスの企業連合に決まりかけたが、一九九八年にドイツで高速鉄道ICEが脱線して約百八十人が死傷し、翌九九年には台湾で大地震が発生した。

 東海道新幹線が六四年に開業以来、列車事故で死者ゼロという日本の技術が見直され、商社や車両メーカーでつくる日本連合が逆転して採用された。日本初の新幹線輸出プロジェクトに、JR東海は技術支援で協力した。

 日本側は、安全を最優先に「車両、施設、列車制御など日本で実証済みのシステムを一括で輸出すべきだ」と提案した。ところが、台湾側は「日欧のいいとこ取り」を主張し、トンネルなどの土木工事を欧州式で見切り発車した。要望の多くを採用されなかった日本側は「日本で使われていない技術は保証しない」と通告するほどだった。

 車両には日本で当たり前の乗務員専用の扉がなく、線路の分岐器(ポイント)はドイツ製で構造が複雑…。欧州式との混合システムでも、失敗すれば新幹線の安全神話が揺らぐ。

 八多は二〇〇三年から二年間、台湾高鉄の幹部候補を教育し、運行から営業まで業務マニュアルをすべて作り直した。「気を使うことが多く、ジレンマを抱えていた」。〇七年の開業後はポイント不具合が散発し、新幹線技術を丸ごと導入できなかった懸念は現実となる。

 それでも日台の鉄道マンは安全を担う血を通わせた。八多と同時期に台湾へ赴いた松崎逸男(64)は、二十人ほどに信号システムの管理を指導した。昼間は試運転が優先され、連夜、保守作業と合わせて実地で教えた。余裕のない研修日程も「みんながついてきてくれた」と感慨深い。帰国前には酒を酌み交わし、ハイタッチで別れを惜しんだ。

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 東海道新幹線の東京−名古屋間とほぼ同じ距離を結ぶ台湾高鉄は航空便のシェアを完全に奪い、一日あたりの利用客は十六万人を超す。二人は台湾を訪れるたび、日本並みにダイヤの遅れなく、多くの人に利用される様子を見てきた。「難産だった弟も立派になった」

 開業から十一年、設備の補修や取り換え、システム更新を徐々に迎えている。JR東海は台湾高鉄の助言役となり、一緒に知恵を出す。八多と松崎には、それぞれメールで近況を報告し合う仲間もいる。

 愛知県内で旅行会社に勤める台湾出身の蔡樺芸(37)は「日台どちらの新幹線も快適。甲乙は付けがたい」と笑う。台湾人には東海道新幹線、日本人には台湾高鉄に乗ってほしい。「交流のきっかけに」と思う。

 JR東海は今、米国のテキサス州での高速鉄道計画に、新幹線技術を売り込んでいる。「次の弟には、システムの一括輸出で完成度の高い技術を届けたい」。最前線に立つ八多は決意を新たにする。 (敬称略)

 <台湾新幹線> 2007年1月に運転を始めた高速鉄道で、台湾高速鉄道公司が運行。総事業費は1兆7000億円。台北−左営(高雄市)間の345キロを1時間半で結ぶ。最高時速300キロ。16年に台北から約5キロ東の南港(台北市)まで延伸した。車両や列車制御の大部分は日本の技術が導入され、車両は東海道新幹線「のぞみ」700系がベース。

 =第三部終わり

 (小柳悠志、山上隆之、久野賢太郎、後藤隆行が担当しました)

 

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