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共創 アジアへ

第3部 海峡を越えて(1) 出光・東海銀

1953年、イランのアバダンに入港した日章丸。遠方に製油所が見えた=出光興産提供

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 産業と暮らしを支えるエネルギー資源は、時に国家間の軋轢(あつれき)を生むほど世界経済の行方を左右する。その大半を輸入に頼る日本では、かつて企業が海をまたいで前例のない行動に出た。一方、国内で半世紀超の安全神話を誇る新幹線は、乏しい資源に代わって輸出されるようになった。「共創 アジアへ」第三部は、エネルギーやインフラを巡る中部企業の苦闘を追う。

 灼熱(しゃくねつ)の海原に危険を冒してタンカーを送ったのは金もうけのためではない。

 「石油一滴は日本にとって血の一滴」と信じるからこそ言葉も激してしまう。出光興産の創業者で社長の出光佐三(故人)は、「あなたは昭和の紀伊国屋文左衛門だ」と持ち上げる記者をねめつけた。「お門違い、迷惑千万だ」

 一九五三年四月十日、出光のタンカー「日章丸」が石油買い付けのため、イランのアバダン港に入ったとの電撃的なニュースが世界を駆け巡った。

 イランは二年前に石油を国有化し、国内にある英アングロ・イラニアン(現BP)の施設を取り上げていた。英国はイラン沖に軍艦を派遣し、石油の積み出し阻止に動く。その軍事封鎖の網をかいくぐって日章丸はペルシャ湾の奥にたどり着いていた。

 翌日に東京の本社で開いた会見で佐三は雄弁だった。「公正で自由競争の石油市場をつくる」。欧米資源メジャーが牛耳る国際カルテルを破り、日本に安いエネルギーを届けたい。「紀州のミカンを江戸に運んでもうけた紀文の商いとは格が違う」と思っていた。

 イラン石油を積み込んだ日章丸は、往路で通った英国支配下のシンガポールそばのマラッカ海峡を避け、ジャワ島沿いのスンダ海峡を抜けて日本に戻った。英国の圧力に屈しない出光の行動に、敗戦国の日本は沸き立つ。それでもイランとの取引継続に大きな壁が立ちはだかっていた。

 貿易には銀行が取引先を保証する信用状が必要で、邦銀が信用状を発行すれば英国の怒りを買うのは確実だった。初回は、国際業務に明るい東京銀行(現三菱UFJ銀行)が米国を介してイラン向けに信用状を発行して乗り切っていた。

 二回目は英国の圧力が格段に強まる。「何とか、お力添えを」。出光が名のある大手行に懇願してもナシのつぶて。既に日章丸はイランへ向かっていた。

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 佐三は夜行列車で名古屋に降り立ち、栄にあった東海銀行(現三菱UFJ銀行)の本店を訪ねる。迎えた常務木下正美の答えは、意外にも「やってみよう」だった。日本が石油を求めて開戦した太平洋戦争中、陸軍主計大尉だった木下は乗り込んだ輸送船を撃沈され、南海を漂流した。「石油一滴」の重みを知っていた。

 出光の社史によると、イラン石油の輸入を開始後、日本のガソリン市況は一リットル当たり二・五円、灯油も三円ほど下がった。イラン政府が出光の買い付けを意気に感じ、代金を国際相場の半額にした恵みでもあった。

 東海銀はまだ海外に支店がなかった。「戦後の復興期で攻めの経営姿勢もあったのだろう」と、木下の長男で元出光社員の正捷(まさかつ)(80)はおもんぱかる。六二年に副頭取だった木下が急逝すると、佐三は追悼集にこうつづった。「私どもが正しく歩いておれば、木下さんは必ず認めてくれた」

 出光は石油元売り大手へ成長を遂げる。大型コンビナートの先駆けとなる中部電力の尾鷲三田火力発電所(三重県尾鷲市)には、燃料の石油の供給に参加した。

 東海銀は主力行として出光との結びつきを深める。元専務の沢木秀夫は生前、出光の重役に「恩義を感じているから取引を続けている」と聞かされていた。

 日章丸事件から半世紀後、新たに台頭したエネルギーの天然ガスを巡り、産出国と対峙(たいじ)する企業が中部に現れる。

 (敬称略)

 <日章丸事件> 石油を国営化したイランは英国による経済封鎖に抗して各国の企業に石油取引を持ち掛けた。出光興産は欧米の資源大手が経営参画していないためイランとの交渉が可能だった。出光佐三は、東京の旧帝国ホテルの地下グリルでイラン側と接触し、取引に前向きになったとされる。日章丸のイラン入りは極秘で、船内でも航海の途中まで船長の新田辰男(石川県白山市出身)らしか知らされなかった。近年、百田尚樹著の小説「海賊とよばれた男」で再び注目された。

 

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