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共創 アジアへ

第2部 ノリタケ 興せ産業(5)

内戦が続く中、工場でカップの品質を点検する土森道雄さん(右から2人目)=スリランカ・マータレーで

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 工場を軌道に乗せて十年余り。ノリタケカンパニーリミテドの海外事業課長だった土森(ともり)道雄(72)は一九八四年夏、ある「任務」を携え、スリランカに足を踏み入れた。前年から民族対立による内戦が起きていたが、それが理由ではない。パートナーの陶磁器公団との火種がくすぶっていた。

 合弁会社「ランカポーセレン」は主に北米向けに洋食器を輸出していた。製品の八割をノリタケが購入し、自社ブランドの入門編として販売した。標準の皿なら約十ドルで買い取り、輸送費、北米での保管費や販売員人件費などを加えると、店頭で四倍以上の値が付いた。「それでも日本製より安いので、飛ぶように売れた」と土森は語る。

 ただ、販売単価に流通コストを上乗せする概念は、農業しか主要産業がなかったスリランカではなかなか理解してもらえない。経営感覚のずれを解消することが、土森の任務だった。

 交渉相手となった政府の弁護士らは、買い取り価格の引き上げを求め厳しい口調で問い詰めてきた。土森は解決の難しさを肌で感じた。「われわれは商売の論理でしか付き合えないが、ここではそれが通じにくい」

 社長だった倉田隆文(故人)は直接、何度も指示を出した。「ノリタケの食器事業の将来を考えれば、スリランカは今後さらに重要な拠点になる。粘り強く交渉してほしい」。トップの思いに、土森は「やらざるを得ない」と腹を固める。三年超を費やした交渉は、政府側が矛を収める形で折り合う。ノリタケが合弁会社の出資比率を増やす約束も得られた。

 これからという時、民族間の対立が激しくなり、各地に内戦の戦火が広がった。武力衝突でインフラは傷つき、相次ぐ戒厳令の発出が工場にも影響を及ぼしていた。八八年には機関銃を持った反政府勢力が工場へなだれ込み、操業停止とデモ参加を強要する事件まで起きた。

 内戦のあおりを幾度か受け、工場は最長で三カ月間も止まった。だが、もうノリタケに「撤退」の二文字はなかった。工場近くには政府側の警備隊の駐屯基地ができた。一時は確執が生じた陶磁器公団が掛け合ったおかげだった。土森は「大きな後ろ盾が操業に安心感を与えてくれた」と感慨深い。

 駐日スリランカ特命全権大使のダンミカ・ガンガーナート・ディサーナーヤカ(60)は二十代のころ、母国から多くの海外企業が撤退するのを見てきた。「内戦が長引き、経済的に苦しい時代も操業を続けたノリタケに、国民は感謝の気持ちを持っている」

 内戦は二〇〇九年まで二十六年にわたったが、ノリタケは度重なる難局を乗り越え、食器生産の主要拠点としての足場とスリランカでの確かな地位を固めた。

 スリランカは今、経済発展が進み、中国をはじめ海外企業の進出も目覚ましい。ディサーナーヤカは「ノリタケの姿が手本となり、多くの企業進出につながった」とみている。

 (文中敬称略)

 <スリランカ内戦> 主にヒンズー教徒の少数派タミル人で構成し、北東部の分離独立を目指す「タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)」と、仏教徒中心の多数派シンハラ人が主体の政府が1983年ごろから武力衝突。LTTEは自爆テロなど過激な手法を用い、政府軍との抗争が激化。内戦状態は2009年まで続き、7万人以上の死者を出した。スリランカにはイスラム教徒もおり、内戦後も宗教対立が根強い。

 

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