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共創 アジアへ

第2部 ノリタケ 興せ産業(4)

完成間もないランカポーセレンの工場。スリランカ政府関係者も視察に訪れた=1973年、スリランカ・マータレーで(ノリタケカンパニーリミテド提供)

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 洋食器を運ぶコンベヤーの音が静かに響く。傍らで女性たちが、白磁の器に金線を引いていく。一筆が良しあしを決める。その絵付けの出来栄えは本のデザインと違わない。器の裏に「Noritake」の文字が刻まれていく。

 スリランカ中部の地方都市マータレーにノリタケカンパニーリミテド(名古屋市)の子会社「ノリタケランカポーセレン」の工場はある。最大都市コロンボから北東へ百四十キロ離れた地で、今ではノリタケ製洋食器の九割を生産している。

 「タイで輸出用の洋食器製造を意図して調査したが、良質原料が入手困難で取りやめを検討している」。一九六〇年代後半、シンガポールの新聞が、まだ社名が日本陶器だったノリタケの動向を報じた。

 小さな扱いの記事だったが、後にスリランカとなるセイロンの政府関係者が目を留めた。農業国で工業製品の大半を輸入に頼っていた。慢性化していた貿易赤字から脱却するため、新たな産業を欲していた。政府関係者はすぐさまノリタケに進出を迫った。

 ノリタケは日本で労働単価が上昇し、海外進出を模索していた。南アジアの島国を選んだのは「良質な原料がふんだんにあることが決め手になった」と、元専務で駐在経験がある土森(ともり)道雄(72)は振り返る。硅石(けいせき)、長石、カオリンと白磁に必要な三大鉱石がそろっていると現地調査で分かった。

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 進出交渉を進める間、七一年の「ニクソン・ショック」で為替の固定相場制が事実上崩壊し、日本からの輸出に円高の逆風が加わる。セイロンが国名をスリランカに変えた七二年、ランカポーセレンが設立される。政府直営の陶磁器公団が七割超を出資し、ココナツ畑を切り開いて工場を建てた。

 現地で募った百人ほどが従業員となり、日本からベテランの指導員が派遣された。「仕事以前に工場の掃除から教えた」と、相談役の種村均(70)=前会長=は伝え聞く。自宅にバナナの葉を敷き詰めて寝起きする人が多く、家を掃除する習慣に乏しかった。ぞうきんやほうきを日本から持ち込むほどだった。

 食器づくりは手先が器用な女性が向いている。ところが男女の触れ合いを禁じる仏教の戒律が待ち受けていた。「指導する男性が女性の手に触れようものなら、声を上げられてしまったようだ」と種村は言う。手ほどきの難しさを感じながら、粘り強い指導が続いた。

 当時の担当役員で元社長の倉田隆文(故人)が書き残した本紙コラム「紙つぶて」によると、最初の指導員は六人で、うち一人が「現地作業員のまじめさについて認識不足だった」と帰国報告書に記している。従業員らが一年間に習得した技能水準は、絵付けの品格と作業スピードを併せ、日本の本社を百とすれば六十五程度に達し、思った以上にのみ込みが早かった。安い量販食器として輸出すると、米国の中流家庭に受け入れられた。

 八〇年代、最初の指導員らが工場を再訪すると、従業員たちが「昔の大先生が来た」と周りを取り囲んだ。同行した種村は「彼らの態度、指導が素晴らしかったから、尊敬されて多くの弟子をつくった」と先人をたたえる。

 (敬称略)

 

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