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共創 アジアへ

第2部 リンナイ 興せ産業(1)

1984年の完成から間もないリンナイコリア第2工場=韓国・仁川で(リンナイ提供)

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 日本が経済大国へ成長した一九七〇年代、発展途上のアジア諸国に進出し、その国になかった産業を興した中部のメーカーがある。韓国ではリンナイのガス機器、スリランカではノリタケカンパニーリミテドの洋食器が、それぞれ暮らしや経済を変えた。「共創 アジアへ」第二部では、両社が「われらが企業」と認められた訳を探る。

 初めはフランス語かと思われた。「リンナーイー」。日本よりも後半に声が伸びるフレーズがCMの最後に流れる。耳に残る響きはリンナイを韓国ブランドとして知らしめていく。

 現在、ガスコンロなど厨房(ちゅうぼう)機器はシェア40%とトップ。床暖房用のガスボイラーも28%で二番手につける。韓国でのリンナイの歩みは、ガスの普及の歴史と重なり合う。

 一九七二年、チマ・チョゴリを着た女性が、コンロのつまみをひねって点火した。朴正熙(パクチョンヒ)大統領夫人、陸英修(ユクヨンス)(故人)だった。ソウル南部でプロパンガス工場の完成式に出た後、一般の家庭で「青い炎」をともし、笑みをたたえた。

 ガスは前年に試験供給がソウルで始まったばかり。その本格供給に向けたセレモニーで使われたコンロは、自社製だったと名古屋市のリンナイ本社に伝わる。韓国で当時、手がけるメーカーはなかった。まだリンナイも拠点を設けていない。ただ、高い関税を避けて製品をばらして輸入し、組み立て直す業者がいた。しかも高値で売れていた。

 日本のガス機器大手の技術の確かさに、貿易商の姜聖模(カンソンモ)(85)も目を付けた。ライターなどの小物を輸入する中、東京の展示会でリンナイ製品を見つけ、営業所に飛び込む。「韓国で売らせてくれ」。部品の輸入から始め、七四年にリンナイと合弁会社「リンナイコリア」を仁川(インチョン)に起こす。翌年、韓国で初となるガスコンロの量産に乗り出した。

 折しも近代化を進める韓国政府が、家庭にガスを普及させるための法律を整備し、ガス機器の需要が一気に高まっていく。

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 通算で四半世紀近く駐在した水野隆行(70)は、今はリンナイコリアから離れた姜の言葉を覚えている。「情と恨みを忘れるな」。情が信頼関係をつくり、信頼がなくなれば恨みにつながる。だから顧客を絶対に裏切ってはいけない、と。

 競合相手が出てきた七九年、業界初のアフターサービス組織を設けた。「電話になかなか出ない」「つながってもいつ来るか分からない」。そんな状況を変えるため全国の拠点から修理要請に応じた。

 問い合わせ電話番号の末尾は「3651」。韓国語で「1」の発音は「日」と同じで、年中無休の応答を意味した。

 他社製を使う家まで訪ね買い替えも受注するうち、四十キロほど離れたソウル近郊の販売代理店が入荷を待ちきれなくなる。工場の外でトラックが列をなし、水野は「製品を奪い合うくらい供給が需要に追いつかなかった」と懐かしむ。八四年には第二工場が建つ。営業の倍の二百人以上を販売後のケアに充てた。

 テレビ、洗濯機、リンナイ−。嫁入り道具の「三種の神器」に挙がるほど、リンナイはガス機器の代名詞となる。

 この頃、韓国伝統の床暖房の「オンドル」は事故が絶えなかった。練炭で暖めて床下にはわせる煙が室内に漏れると、一酸化炭素中毒で死者が出ることも。使用済みの練炭は路上に捨てられ公害と化していた。

 煙に替え、お湯を使う床暖房を普及させようと、リンナイコリアは日本のリンナイに給湯器の燃焼技術の転用を提案する。排気対策を講じたガスボイラーを八七年から量産していく。

 いてつく寒さで暖房が止まれば生死に関わるため、冬季の二十四時間サービスもいち早く導入した。「消費者の心をつかむ改善」と水野は振り返る。顧客に寄り添う姿勢は他社にも影響を与えた。 (敬称略)

 <リンナイコリア> リンナイの韓国法人で1974年、貿易商の姜聖模ら韓国側との折半出資で設立。2013年からリンナイが100%出資している。17年12月期の売上高は349億円、純利益は4億9900万円。売上高のうち、ボイラーなど給湯機器が55%、コンロなど厨房機器が25%。従業員は約950人。

 

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