トップ > 特集・連載 > 共創 アジアへ > 記事一覧 > 記事

ここから本文

共創 アジアへ

第1部 トヨタ 道を知る(4)

インドネシアトヨタのオフィスで社員と打ち合わせをするワリ社長(中)=ジャカルタで(岸本拓也撮影)

写真

 工場に出勤しても、造る車がない。仕事といえば、掃除や整備ぐらい。従業員のやる気が目に見えて落ちていた。

 インドネシアのジャカルタ近郊で、トヨタ・アストラ・モーター(TAM)が一九九八年三月に稼働させたばかりの車両組立工場は、一日動くと一日止まるような事態に陥った。前年に起きたアジア通貨危機の余波で、トヨタ車の販売が六分の一に落ち込んでいたのだ。

 「どうしたら、みんなのやる気を高められるか」。組立部マネジャーだったワリ・アンダン・チャフヨノ(54)は頭を悩ませた。答えを求め、従業員一人一人と対話した。

 早期退職する者も出始めていた。「お金がない」と生活費を心配する従業員に、ワリは明るく答える。「私もない。お金のない者同士で知恵を出そう」。同じインドネシア人だからこそ通じ合う感覚もあった。

 聞き取りを重ねるうち、「農作業をやりたい」という声が上がる。約百ヘクタールの広大な敷地は土地が余っていた。「人は何もしないと、悪い考えばかり頭に浮かんでしまう。体を動かして好きなことをやった方が良い」。ワリは提案をのむ。

 工場内に生まれた畑には、唐辛子やトマト、豆が実を付けた。若い従業員たちは、収穫した作物を誇らしげに家へ持ち帰った。農作業は車の販売が持ち直すまで二年間続いた。

 インドネシアの大学で化学工学を学んだワリは卒業後の八九年に入社した。技術者として生産管理畑を歩みつつ、日本のトヨタ自動車本社にも二年間勤務し、トヨタ生産方式を体にたたき込む。「たゆまぬカイゼンには、現地現物のコミュニケーションが必須だと学んだ」。この経験がアジア通貨危機で生かされた。

 二〇〇三年にTAMから製造部門が独立し、インドネシアトヨタが発足する。出向の日本人社長が三代続く間、副社長になっていたワリは一七年四月、社長に抜てきされた。トヨタの八十年の歴史上、アジアの生産会社で初の現地生え抜き社長の誕生でもあった。

 人事や総務など管理部門の経験も積んだワリは「柔軟で、決断が速い」と、前任社長の野波雅裕(63)はみていた。若手社員に自然に溶け込み、趣味のフットサルに一緒に興じる気さくさもある。「トヨタがもっとこの国に貢献していくには、現地の人間がトップになるのが良いのでは」。野波はそう感じていた。

 就任に先立つ一七年三月十三日、ジョコ大統領との面会を控えた朝食会議で、トヨタ社長の豊田章男(62)がワリに語りかけた。「その国のトヨタの社長となるべき人間は、その国に最大限の貢献をしないといけない」。ワリは豊田の言葉を片時も忘れない。

 九千三百人の従業員に、呼びかけていることがある。日々生じる課題をすぐに報告する「バッドニュースファースト」だ。この意識付けが解決を早め、企業として成長できると信じている。「単に車を売るだけではなく、この国の産業を発展させる」。たぎる熱意は次代を担う人づくりにもそそがれている。

 (文中敬称略)

 <アジア通貨危機> 1997年7月、タイの通貨バーツが投機筋から売り浴びせを受けて急落したのに端を発した経済的な混乱。インドネシアや韓国などでも通貨が暴落し、アジア各国で銀行や企業の破綻が相次いだ。輸入品価格が上がるなど市民生活にも深刻な影響が出た。タイ、インドネシア、韓国は国際通貨基金(IMF)の資金援助を受け、一時は管理下に置かれた。

 

この記事を印刷する

新聞購読のご案内

PR情報

地域のニュース
愛知
岐阜
三重
静岡
長野
福井
滋賀
石川
富山

Search | 検索