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共創 アジアへ

第1部 トヨタ 道を知る(3)

ジャカルタ・フェアで展示されたキジャンの構成部品。現地生産できる部品は赤く塗られた=1975年6月、岡林睦夫さん撮影=トヨタ自動車提供

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 赤と白に色分けされた自動車部品が天井から釣り糸でつるされていた。焼き打ち事件翌年の一九七五年六月、インドネシア最大の産業見本市「ジャカルタ・フェア」に、トヨタ自動車の「キジャン」が初めて姿を見せた。まだ「国民車」と称される面影はない。

 ボディーやドア、バッテリー、ラジエーター…。多くの部品を赤く塗ったのは、いずれ現地で生産できるとの印だ。「この車は『インドネシアでこれだけ国産化ができます』というアピールだった」と、後にトヨタ・アストラ・モーター(TAM)副社長を務めた野村幹雄(76)は振り返る。エンジンや変速機など日本からの輸入品は白く塗った。

 ただ、展示できたのは構成部品だけ。本当は試作した完成車を展示したかったが、直前にインドネシア政府関係者が「こんなブリキ細工のような車を飾るのか」ととがめた。野村は徹夜で部品を色分けした。

 鉄板を折り曲げて溶接しただけの車体に、ビニール製のサイドウインドーと、武骨で簡素な見た目はお世辞にも洗練されているとは言い難かった。

 キジャン開発は米自動車大手の攻勢に対抗する手頃なアジアカー構想として始まった。自国に自動車産業を根付かせたいインドネシアの工業大臣が来日時、トヨタに「庶民に手の届く車を造ってほしい」と伝えたのも後押しとなった。

初代キジャン=トヨタ自動車提供

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 コストをぎりぎりに削るため部品はほぼ既存車種から流用する一方、要のエンジン(排気量一一六六cc)は主力車カローラと同じにした。「軽トラ並みの低価格と頑丈さが最大の売り」と、TAM車両業務課長だったバンタ美枝子(76)は語る。

 七七年六月、百三十万ルピア(約八十六万円)で荷台付きの商用車として発売すると、購入したのは意外にも個人だった。「カロセリ」と呼ばれる街の架装業者で後部の荷台を取り外し、車体を取り付けてミニバンやワゴンとして使っていた。

 野村は「トヨタが改装車両を出すこともできたが、『商売を取り上げないで』という地元の声に配慮もあった」と明かす。

 ベース車をトヨタが造り、カロセリが客の要望に合わせて改造する。トヨタは街の業者の技術指導に出かけ、品質を保証した。この協力関係が市民に受け入れられ、キジャンの販売台数は発売四年目に初めてカローラを上回った。

 初代から関わり、トヨタ副社長も務めた横井明(故人)は「迷ったら、その国のためになることを選べ」と説いていた。八六年発売の三代目はミニバンとなり、家族の多い国民の支持をさらに集める。トヨタとしてもインドネシアで三菱自動車などを抜き、トップのシェアを築いていく。

最新の6代目キジャン=トヨタ自動車提供

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 キジャンの部品の現地調達率は生産当初に19%だったが、最新の六代目で85%まで高まり、国民車の地位を固めた。二年前に購入したジャカルタの中学校教師ヌール・アイニー(46)は「大家族なので広い車内空間が気に入っている」と愛車の良さを話す。

 キジャンは東南アジアをはじめ新興国に輸出されるようになる。今は豊田通商インドネシアで働くバンタは、かつてブリキと呼ばれた車の成長を誇らしく思う。「世界に類を見ない独自の飛躍を遂げたキジャンは、インドネシアの工業化や経済発展に貢献できた」

 (文中敬称略)

 <キジャン> インドネシア語で「鹿」を意味するトヨタ自動車のインドネシア生産車。同国での約40年間の累計販売は183万台(4月末現在)。2004年、新興国向け戦略車IMVシリーズの「イノーバ」に統合されるが、インドネシアでは「キジャン・イノーバ」の名称が使われている。

 

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