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共創 アジアへ

第1部 トヨタ 道を知る(2)

事件後の産業見本市で会話する(左から)バンタ美枝子さん、神尾秀雄・エレンさん夫婦、野村幹雄さん=1974年、インドネシア・ジャカルタで(神尾朗維さん提供)

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 不慣れな異国で起きた異常事態に家族の不満とストレスがたまりつつあった。一九七四年一月、インドネシアのジャカルタで、トヨタ・アストラ・モーター(TAM)は本社の焼き打ちに遭い、日本人社員は自宅待機を命じられた。当時三十二歳の野村幹雄は、日本から妻と三人の子どもを呼び寄せたばかりだった。

 事件から二日後、社長の神尾秀雄(故人)の妻エレンが野村の自宅を訪ねてきた。旧宗主国のオランダの血を引くエレンは、外出できない社員のため、トヨタ車にお菓子や食料を積み込んで届けて回っていた。

 騒ぎが続く路上で車を取り囲まれても、エレンはひるまない。「私はインドネシアに生まれ育った。あなたたちより長く住んでいるのよ」。こう諭すと囲んだ人たちは「ごめんなさい」とすんなり通した。

 野村は、明るく笑って家族を励ますエレンの姿を思い出す。「勇気ある行動に頭の下がる思いだった」

 太平洋戦争中、神尾はトヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)から軍属としてジャカルタに赴いた。やがて三歳下のエレンと知り合い、結ばれる。敗戦後に捕虜として収容所にいるとき、双子の娘に恵まれた。

 七三年にTAM社長となって二度目の赴任では、日本人とインドネシア人の社員を分け隔てなく接し、よく交流会を社長宅で開いた。それでも事件を受け、「日本は東南アジアとの関係を経済視点でしか見ようとしない」(現地紙)と批判された。

 社員たちは数日ほどで復旧に動きだす。燃えた請求書などを作り直し、港に留めた在庫車両の確認に走った。この間、神尾は日本の本社に辞表を出すが、慰留されている。

 十カ月後、社会貢献のためのトヨタアストラ財団が立ち上がる。日本のトヨタ財団とほぼ同時の設立で、奨学金拠出を始めた。「インドネシアの人たちと一緒にやっていくんだ」という神尾の言葉が、現地採用の社員だったバンタ美枝子(76)の耳に残っている。

 ところが、もともと心臓の弱かったエレンは翌七五年夏に急死する。五十一歳だった。「事件がなければ、もっと長生きしてもらえたのに」。長男朗維(ろい)(66)の妻恵子(64)によると、めったに弱音を吐かない神尾が晩年まで悔いていた。

 カトリック教会で営んだ葬儀には、神尾が知らない顔も集まった。以前からエレンは社員の妻らと親睦会をはぐくみ、孤児院も訪ねていた。人付き合いがうまくない神尾が現地で溶け込めたのは「母がいたから」と朗維は思う。神尾は孤児院訪問を引き継いだ。

 葬儀を仕切った合弁相手の華僑系財閥とは家族ぐるみで付き合った。母に代わって神尾を支えた三女のレイ(69)は「奥さん同士の根回しがある国のようで、アポなしで家に来るほどの間柄だった」と懐かしむ。

 八〇年代初め、日本のトヨタで神尾は米国でのゼネラル・モーターズ(GM)との合弁生産交渉に携わり、副社長も務める。「日本が国際社会で生きていくには相手国の歴史や文化をもっと知ることだ」。あの事件から胸に刻んでいた。

 今もトヨタアストラ財団は経済的に恵まれない子どもたちに奨学金を提供している。根付くための気づきは本業でも生かされていく。

 (文中敬称略)

 

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