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共創 アジアへ

第1部 トヨタ 道を知る(1)

暴徒に社屋を襲われ、壊されたトヨタ車(バンタ美枝子さん提供)

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 私たちの隣人でもあるアジアの国々に、中部の産業界は時間をかけて根を張ってきた。戦争の記憶や景気の荒波にもまれながら、どう手を携え、成長への志を共に創り上げたのか。自国第一の保護主義が世界で台頭する今、現地での軌跡を追う。第一部では、トヨタ自動車が多民族国家のインドネシアで受け入れられていく道のりをたどる。

 蒸し暑さがむらむら高まるように、人々の熱気が固まりとなっていく。白亜のビルを取り囲み、石を投げ付け始めた。看板に「TOYOTA」とあった。二千にも三千にも膨れ上がった人の群れには、学生や大人だけでなく、子どもも入り交じっていた。ビル内に百人ほどがなだれ込む。一階のショールームのガラスをたたき割り、油をまいて火を放った。

 一九七四年一月十五日、インドネシアの首都ジャカルタで、トヨタ・アストラ・モーター(TAM)の本社が焼き打ちされた。警備の保安員は逃げるしかなく、そのすさまじさを後に社員に証言した。

 TAMは、トヨタ自動車が、華僑系財閥のアストラ・インターナショナルと営む合弁会社だった。当時の現地採用の社員、バンタ美枝子(76)は「頭が真っ白になった」と振り返る。

 ホンダやヤマハ、スズキの販売店でもバイクが燃やされた。日本で「反日」と報じられた暴動は、現地では後に「マラリ事件」と呼ばれるようになる。

がれきが散乱したトヨタ・アストラ・モーターの本社=1974年1月、ジャカルタで(バンタ美枝子さん提供)

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 あと一年で太平洋戦争が終わって三十年。高度成長の波に乗る日本企業は、東南アジアへ競って進出していた。これを「日本資本の侵攻」と敵視する学生デモが各国で多発していた。焼き打ち前夜、首相の田中角栄が東南アジア歴訪の最終地としてジャカルタの空港に降り立つと、街はデモ隊であふれ返った。

 十五日昼すぎ、五十三歳だったTAM社長の神尾秀雄(故人)は、街中の様子を聞きつけ、全社員に帰宅を命じた。「火の手も上がり、群衆が集まっているらしい」

 駐在員の野村幹雄(76)は、まだ大ごとには考えていなかった。本社には海兵隊出身の保安員のほか、十数人の軍人も詰めていた。宿舎に帰って同僚とお茶を飲んでいた夕方、東京・九段にあるトヨタのビルから電話が入った。「そっちの本社が燃えているぞ。NHKで映っている」

 野村が様子を見てくるよう頼んだ運転手は、すぐに帰ってきた。無数の群衆が路上を埋め、車では近づけなかったのだ。ジャカルタに夜間外出禁止命令が発令された。

 翌朝、バンタは本社に足を運ぶ。七三年五月に完成し、百人ほどが働く白壁の五階建てビルは黒焦げとなり、ショールームから引きずり出されたクラウンやコロナが焼けただれ散乱していた。ペンキが焼けたような焦げ臭さが鼻を突いた。

 「どうしてこんなことが起こるんだろう」。日本で出会ったインドネシア人男性と結婚し、ジャカルタに移り住んで十年。幼い子がいるバンタは、やり場のない怒りから、言葉の代わりにため息が出た。

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 本社は目抜き通りに面し、日頃は夜もショールームに明かりをつけていた。まだ辺りはバラックの建物が雑然と軒を並べていた。暴動の標的となったのは「たまたま目につくところに社屋があったから」と、トヨタ自動車販売(現トヨタ自動車)三十年史にある。

 トヨタにとって七一年設立のTAMはアジアではタイに次ぐ現地法人で、ようやく態勢が整ったばかり。事件後、一時は社長宅が連絡所となる。「この先どうなるのか」。不安がる社員みんなを前に、神尾は言った。「平常通り稼働する。絶対に撤退はしない」。ただ、分かり合うにはどうすれば良いのか。

 (文中敬称略)

 <マラリ事件> 「1月15日の災難」を意味するインドネシア語を縮めた造語。1974年1月15日をピークに数日間、ジャカルタで学生デモが暴動に発展。政府発表では死者11人、逮捕者470人で、800台の車両が破壊された。経済立て直しに向けてスハルト政権が進めた外国資本の受け入れが貧富の差を拡大させ、民衆が不満を募らせていたことが背景にあるとされる。政権内の権力闘争から暴動をあおる工作活動があったとの見方もある。

 

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