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丸栄 思い出ありがとう

さらば丸栄 軌跡を追う (中)窮地

◆若者去り なじみ残らず/ギャル文化衰退 戦略迷走

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 派手なギャルファッションを大量導入した丸栄は、十代や二十代の女性でにぎわう一〜三階とその他の階で店の雰囲気が二分した。

 「うるさい音楽をどうにかしてほしい」「露出が多い。百貨店で扱う商品なのか」。現服飾雑貨・サービス部長の岩田泰弘(51)は、社運をかけた一九九九年の改装後、活気と引き換えに苦情が増えたことを思い出す。

 中高年客の中には、異質な空間に変わった下層階をエスカレーターで通り抜けるのさえ嫌がった人も。改装後しばらくは外商の受け付けが二階にあり、古くからのなじみ客も足が遠のいた。

 若い女性客は家族連れなどと違って他の売り場に関心が少なく、全館の買い回りにもつながらなかった。九八〜二〇〇八年に社長を務めた後藤淳(83)は「批判はあったが、そうしなければもっとしんどかった」と振り返る。

 だが、一世を風靡(ふうび)したギャル文化は一〇年ごろに衰退した。けん引役だった東京のファッションビル「渋谷109(イチマルキュー)」が海外の低価格衣料品進出などで勢いをなくし、丸栄のギャル路線も伸び悩んだ。

 同時に、人口減少や個人消費の長い低迷が市場の縮小に拍車を掛ける。百貨店業界は生き残りをかけ、再編時代に突入した。〇三年にそごうと西武百貨店が経営統合し、〇七年には松坂屋と大丸、翌年には三越と伊勢丹が手を組んだ。

 名古屋・栄の真ん中にある丸栄にも、誘いの手は伸びた。後藤は社長在任中、合併の話があったと証言する。「だけど熟慮の結果、今そういう段階ではないとお断りした」。東西の資本と一緒になれば吸収されてしまうとの判断だった。

 その結果、競合店が仕入れや販売企画でグループ力を生かしたのに対し、小規模のまま独立路線を貫いた丸栄は、高級ブランドが最後まで乏しかった。収益の柱になる化粧品はジェイアール名古屋高島屋に五十ものブランドがそろうのに、十に満たない程度の品ぞろえ。岩田は「商品投入力に雲泥の差があった」と悔しがる。

 丸栄は経営のスリム化を図る必要に迫られ、隣接する商業ビル「スカイル」の売り場撤退や愛知県豊橋市のグループ店「豊橋丸栄」の売却を決行。〇四年と一〇年には百人以上の人員削減にも手を付けた。

 店内では、人件費がかかる自主企画の売り場を縮小し、訪日外国人客に人気の家電量販店「ラオックス」や紳士服量販店「サカゼン」の誘致を進めた。ただ、競合店幹部が「量販店価格で買う人は、百貨店の他の売り場で買い物しない」と指摘するように、収益の改善には貢献しなかった。

 “劇薬”のギャル路線から始まってターゲットの客層がころころ変わり、戦略のぶれが目立った丸栄。一七年二月期には三年連続の最終赤字を記録し、経営は窮地に追い込まれる。(敬称略)

◆コア層 つくっては手放す

 江口忍・名古屋学院大現代社会学部教授の話 丸栄はもともと「身近で親しみやすい」を売りにした全方位的な百貨店のはずだった。だが、1980年代のDCブランドブームで別館のスカイルに売り場を設けて若者に大人気になった。その成功体験が染み付いたのか、その後はシニア層の取り込み、次にギャル路線と、コアな客層をつくっては手放すことを繰り返すようになってしまった。

 結果論だが、丸栄を駄目にした最大の原因が「ギャル栄(えい)」。百貨店は慣れ親しんだ店に通うものだが、丸栄は真逆のことをやってしまった。派手な下着店がエスカレーターの横にあったり、ガングロの女性がいたりするところでお年寄りは買い物しにくい。理想的には別館でやるべきだったが低層階でやったため、もともとの顧客層が近寄れない百貨店になってしまった。名駅に高島屋があり、郊外にショッピングセンターもできて、丸栄に通う理由がなくなった。

 

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