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丸栄 思い出ありがとう

さらば丸栄 軌跡を追う (上)危機感

◆ギャル栄 老舗の岐路/若者路線で再起 劇薬に

改装の先行イベントで若い女性の注目を集める「カリスマ店員」(左)=1999年8月、名古屋・栄の丸栄で

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 大理石の柱が重厚感を醸し出すビルに、明るめの茶髪で顔を真っ黒に焼いた若い女性たちが、はしゃぎながら入っていく。一九九九年九月、改装を終えた名古屋・栄の百貨店「丸栄」。にぎやかなクラブ音楽が大音量で流れ、カリスマといわれた店員の周りに人だかりができた。

 「好きなブランドが名古屋に来て舞い上がった。丸栄に行けばイケてる服があった」。当時の中学生で、今は丸栄のテナントで働く女性店員(33)が振り返る。「渋谷109(イチマルキュー)系」と呼ばれるブランドが、流行のギャルファッションに憧れる若者たちを引きつけた。

 丸栄は戦後、名古屋の百貨店でいち早くエスカレーターを設け、新しい陳列手法のオープンディスプレーも導入して評判になった。五〇年代後半には西日本一の店舗面積を誇った。

 系列ホテルの不振などによる経営危機は地元の興和グループや東海銀行(現三菱UFJ銀行)の支援で乗り切ったが、バブル崩壊後は九二年をピークに売り上げが減少した。九九年はジェイアール名古屋高島屋の開業を翌春に控え、対策を迫られていた。

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 丸栄経営陣はかつて名古屋三越栄店の店長だった柳原捷二を招き、改装の指揮を任せる。主要百貨店の元幹部が他店に移るのは極めて異例で、丸栄の危機感の強さを表していた。

 食品担当だった白木幹人(53)は柳原に松坂屋や三越の店頭調査を命じられた。「何が丸栄の強みで何が弱みか、足で稼げ」。比べてみると売り場構成は時代遅れ、ブランド力も圧倒的に足りない。スイーツや総菜など日用品重視に転換し、鮮魚や野菜、精肉の有名店を呼び込んだ。

 売り場で配る料理レシピは社員が作った。白木は何万円もする分厚い図鑑を買い、サワラの旬はいつかなど一から調べた。「全館で社員の意識が変わった」と感じたことを覚えている。

 主力の衣料品は若い女性向け商品の充実が急務だった。当時で二十代後半から三十代の団塊ジュニアに強い三越、高級路線の品ぞろえが盤石な松坂屋に対し、丸栄はどちらも弱かった。

 柳原の人脈を頼り、団塊ジュニア向けブランドと交渉したがまとまらない。担当した岩田泰弘(51)は「秋に改装オープンなのに、春の時点でどの店が入るか全く白紙だった」と明かす。

 岩田たちは、より若い世代が好む「渋谷109系」の人気ブランド「ラブボート」を訪ねた。運営会社の社長が名古屋に住む高校生のめいに電話し、丸栄の評判を聞くと「行ったこともない」。そんなところに出店できるかと、いったんは断られた。

 それでも渋谷に通い詰め、粘り勝ちで姉妹店を含むラブボート出店にこぎつける。核テナント決定を機に売り場が次々と埋まり、丸栄は「ギャル栄(えい)」とも呼ばれる若者向け路線を確立した。

 最盛期の二〇〇五年ごろには関連テナントが約百店に増え、一階の半分と二、三階の全区画を占めた。衣料品部門の業績は好転し、丸栄復活を印象づけた。

 「だけど今思えば、あれは劇薬だった」。岩田が思い返すように、起死回生の策だったはずの改装は、迷走の入り口でもあった。(敬称略)

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 丸栄が三十日に閉店する。名古屋で松坂屋に次ぐ歴史を持つ老舗がなぜ姿を消すことになったのか。その軌跡を追うとともに再開発の行方と期待を探る。

 <丸栄> 1615年創業の名古屋の呉服店「十一屋」と、1937年に名古屋に進出した京都の丸物百貨店がつくった百貨店「三星」が源流。十一屋デパートと三星は太平洋戦争中の43年に戦時統合。「栄で丸く栄える」という願いを込めて丸栄の名を付けた。名古屋では1611年創業の松坂屋に次ぐ歴史がある。

 渋谷109系 東京・渋谷のファッションビル「渋谷109」に入居する、若い女性向けファッションブランドの総称。主に1990〜2000年代、茶髪や顔を黒く日焼けさせたガングロ、厚底ブーツなどの流行を発信した。「セシルマクビー」「ラブボート」といった有名ブランド店の販売員はカリスマ店員と称され、ファンからの高い人気と影響力を誇った。

 

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