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知るコレ!

体験者高齢化の今こそ 戦争どう伝える

伸一(しんいち)ちゃんが愛用(あいよう)していた三輪車(さんりんしゃ)などを見学する来場者(らいじょうしゃ)たち

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 まもなく太平洋戦争(たいへいようせんそう)の終結(しゅうけつ)から73年を迎(むか)えます。日本は戦後(せんご)生まれの人が人口の8割以上(わりいじょう)になり、戦争を体験(たいけん)した人の話を聞くことが難(むずか)しくなる時代(じだい)。どのようにして戦争の悲惨(ひさん)さを伝(つた)えていくべきでしょうか。大人たちも試行錯誤(しこうさくご)しています。

 (川合道子(かわいみちこ))

 1945(昭和(しょうわ)20)年8月6日の朝8時15分、広島(ひろしま)市の上空を飛(と)んでいたアメリカ軍機(ぐんき)から原子爆弾(げんしばくだん)が投下(とうか)されると、それまで人や車が行き交(か)っていた街(まち)は、一瞬(いっしゅん)で廃虚(はいきょ)と化(か)しました。多くの人々が大量(たいりょう)の熱線(ねっせん)や放射(ほうしゃ)線を浴(あ)びて体を焼(や)かれ、苦(くる)しみながら亡(な)くなりました。その年の終(お)わりまでに14万人が命(いのち)を落(お)としたといわれています。

 原爆の悲惨(ひさん)さを今に伝(つた)える同市の平和記念資料館(へいわきねんしりょうかん)。昨年(さくねん)にリニューアルした東館では7月中旬(ちゅうじゅん)、国内外から訪(おとず)れた人たちが直径(ちょっけい)5メートルの展示物(てんじぶつ)「ホワイトパノラマ」を静(しず)かに見つめていました。あの日、爆心地の半径2・5キロメートルで何が起(お)きたのか、被爆(ひばく)前後の街を最新(さいしん)のコンピューターグラフィックス(CG(シージー))を使(つか)った映像(えいぞう)で再現(さいげん)しているのです。

 「戦争(せんそう)を知らない人が増(ふ)える中で、どのようにして伝えるか。資料館は10年ほど前から再整備(さいせいび)計画を進(すす)めてきました」と加藤秀一副館長(かとうしゅういちふくかんちょう)。近年は特(とく)に外国人客(きゃく)から「何発(ぱつ)の原爆が落ちたのですか」と質問(しつもん)を受(う)けることもあったと言います。

 以前(いぜん)は原爆投下の前後を別々(べつべつ)の街の模型(もけい)で見せていましたが、たった1発の爆弾で街が一変(いっぺん)した事実(じじつ)を伝えるには、その瞬間(しゅんかん)をCGで補(おぎな)う必要(ひつよう)があると考えました。架空(かくう)の映像に頼(たよ)るのではありません。基(もと)にしたのはアメリカ軍が空撮(くうさつ)した街の写真(しゃしん)。学芸員(がくげいいん)たちは人々の日常(にちじょう)があったことを示(しめ)すため、当時の電車の種類(しゅるい)や運行記録(うんこうきろく)なども調(しら)べ、映像に盛(も)り込(こ)みました。

 「リアル」へのこだわりは、被爆した人が使っていた道具(どうぐ)や服(ふく)といった遺品(いひん)の展示にも表(あらわ)れています。

 茶色にさび付(つ)いた1台の「三輪車(さんりんしゃ)」。爆心地から1・5キロメートルの自宅(じたく)で被爆して亡くなった銕谷伸一(てつたにしんいち)ちゃん=当時(3つ)=のものです。資料館はリニューアルと同時に、今まではなかった伸一ちゃんの等身大(とうしんだい)の写真も添(そ)えることにしました。加藤副館長は「どのような人が、いつどこで使っていた遺品なのかを明らかにすることで、より戦争を『自分ごと』としてとらえてもらえるのでは」と話します。

 戦争体験者(たいけんしゃ)が高齢(こうれい)化し、いつか展示に対(たい)して「事実と違(ちが)う」と指摘(してき)してくれる人はいなくなります。「だからこそ確(たし)かな根拠(こんきょ)に基づいた展示を心掛(こころが)けたい」。学芸員たちは今も、遺品の裏付(うらづ)けとなる新たな証言(しょうげん)や資料を探(さが)し続(つづ)けています。

 戦争(せんそう)を二度(にど)と起(お)こさないために私(わたし)たちにできることは何でしょうか。愛知県岡崎(あいちけんおかざき)市のNPO法人(エヌピーオーほうじん)「ブリッジ・フォー・ピース」で代表(だいひょう)を務(つと)める神直子(じんなおこ)さん(40)は、14年前から戦争体験者(たいけんしゃ)の証言(しょうげん)を映像(えいぞう)に記録(きろく)し、これを基(もと)に戦争について語り合うワークショップを学校などで開(ひら)いています。

 特徴的(とくちょうてき)なのが、戦争被害(ひがい)にあった人だけでなく、フィリピンなどの戦地で加害(かがい)者となった元日本兵(へい)らの証言も伝(つた)えていることです。「人を殺(ころ)した経験(けいけん)がある私は生きていていいんでしょうか」「家族(かぞく)に言えず、誰(だれ)かに心の手当てをしてほしいと思っていた」。神さんがこうした元日本兵の思いをフィリピンに届(とど)けると、家族を殺された遺族(いぞく)の中には「ゆるしたい」と打(う)ち明ける住民(じゅうみん)もいたと言います。

 ワークショップで参加(さんか)者たちは両者(りょうしゃ)の立場を知った上で、自分たちが未来(みらい)に向(む)かってできることは何かを考えていきます。「戦争では被害者も加害者も、ずっと心に傷(きず)を負(お)い続(つづ)けます。過去(かこ)を知り、隔(へだ)たりのある両者をつなぐことが戦後世代(せだい)の私たちにできることではないでしょうか」。神さんもまた、戦争体験者の肉声を記録し続けています。

原爆投下(げんばくとうか)の瞬間(しゅんかん)や前後の街(まち)の様子(ようす)を伝(つた)える「ホワイトパノラマ」=いずれも広島(ひろしま)市の平和記念資料館(へいわきねんしりょうかん)東館で

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