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知るコレ!

命がけ 長い道のり 満州からの引き揚げ

大きな荷物(にもつ)を持(も)って日本に引き揚(あ)げる人たち=三宅一美(みやけかずよし)さん撮影(さつえい)(平和祈念展示資料館(へいわきねんてんじしりょうかん)の提供(ていきょう))

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 大きな荷物(にもつ)を背負(せお)ったお母さんと子どもたちの絵。手をつなぎ、どこへ向(む)かっているのでしょう。8月15日は72年前に太平洋戦争(たいへいようせんそう)が終(お)わった「終戦記念日(しゅうせんきねんび)」。喜(よろこ)ぶ人ばかりではありません。この日を境(さかい)に、自分の国に生きて帰るための“戦(たたか)い”が始(はじ)まった人々がいました。

 (川合道子(かわいみちこ))

◆日本が敗戦し土地追われる

 「でっかいリュックを背負(せお)ってかあちゃんにしっかりとつかまって」と題(だい)した1枚(まい)の絵。遠足や旅行(りょこう)にしては、お母さんと子どもたちに笑顔(えがお)はありません。

 絵は、平和祈念展示資料館(へいわきねんてんじしりょうかん)(東京都(とうきょうと))で開(ひら)かれている「漫画(まんが)でたどる引揚(ひきあ)げ展(てん)」の作品(さくひん)の一つ。学芸員(がくげいいん)の佐貫正和(さぬきまさかず)さん(38)は「子どもたちはなぜ、お母さんやきょうだいにつかまっていなければならないのでしょうか?」と問(と)いました。

 描(えが)いたのは「天才(てんさい)バカボン」などの作者(さくしゃ)で、9年前に72歳(さい)で亡(な)くなった漫画家の赤塚不二夫(あかつかふじお)さん。昭和初期(しょうわしょき)、日本が中国(ちゅうごく)の東北部(とうほくぶ)を占領(せんりょう)してつくった「満州国(まんしゅうこく)」で生まれ、10歳まで過(す)ごしました。

 満州には、日本から軍人(ぐんじん)や企業(きぎょう)に勤(つと)める人、その家族(かぞく)など約(やく)155万人が移(うつ)り住(す)んだといわれます。当時の日本は景気(けいき)が悪(わる)く、特(とく)に農村(のうそん)では食料(しょくりょう)が不足(ふそく)していました。政府(せいふ)は農業移民(のうぎょういみん)を募(つの)り「満蒙開拓団(まんもうかいたくだん)」として送(おく)りました。小学校や病院(びょういん)も造(つく)られ、現地(げんち)で生まれる子どももいました。

 1945(昭和20)年8月、日本の敗戦(はいせん)が決(き)まると暮(く)らしは一変(いっぺん)。日本人の集落(しゅうらく)が襲(おそ)われるようになりました。満州の土地は、もともと住んでいた中国人から日本が強制的(きょうせいてき)に安(やす)く買い上げていたのです。

 北からはソ連(れん)(今のロシア)軍に攻(せ)められ、住む場所(ばしょ)を追(お)われた人々は日本に帰る船に乗(の)るため何100キロと移動(いどう)しました。これを「引き揚げ」といい、満州から100万人以上(いじょう)が福岡(ふくおか)・博多(はかた)や長崎(ながさき)・佐世保(させぼ)などに上陸(じょうりく)したそうです。

 赤塚さんの絵は日本に引き揚げる自分と家族。母親は「しっかりつかまるんだよ、放(はな)しちゃダメだよ!」と怒鳴(どな)ったといいます。「手を放したら、二度(にど)と家族に会えなくなるかもしれません」と佐貫さん。親とはぐれ、中国に残(のこ)された孤児(こじ)は少なくありません。それぞれが握(にぎ)るリュックの端(はし)や手は「親子を結(むす)ぶ唯一(ゆいいつ)の命綱(いのちづな)」だったのです。

◆帰り着く前に亡くなる人も

 引き揚(あ)げ当時小学生だった人たちが自らの体験(たいけん)を語り継(つ)いでいます。夏目幾世(なつめいくよ)さん(80)=愛知県豊川(あいちけんとよかわ)市=は「東三河郷開拓団(ひがしみかわごうかいたくだん)」として家族(かぞく)5人でソ連(れん)との国境沿(こっきょうぞ)いにある黒竜江省(こくりゅうこうしょう)に渡(わた)りました。終戦(しゅうせん)直後、住(す)んでいた集落(しゅうらく)は毎日のように襲撃(しゅうげき)され、食料(しょくりょう)や衣類(いるい)などが奪(うば)われました。「母にしがみつき、銃口(じゅうこう)がいつ火を噴(ふ)くかと震(ふる)えていました」と夏目さん。出征(しゅっせい)していた父親は自宅(じたく)に帰る寸前(すんぜん)で襲(おそ)われ、殺(ころ)されました。

 集落を転々(てんてん)とし田んぼに残(のこ)るわずかな稲穂(いなほ)を食べたり、父親が仲良(なかよ)くしていた中国人(ちゅうごくじん)に助(たす)けられたりして生き延(の)び、8歳(さい)で母と妹の3人で日本に戻(もど)りました。

 舞鶴引揚記念館(まいづるひきあげきねんかん)(京都府(きょうとふ))で語り部(べ)をしている樟康(たぶのきやす)さん(79)は、船上での体験が忘(わす)れられません。年下の女の子が亡(な)くなると、樟さんの母は口紅(くちべに)を小さな唇(くちびる)に塗(ぬ)り弔(とむら)いました。「もうすぐ着(つ)くというのに、悲(かな)しくてワーワーと泣(な)きました」

 「引揚(ひきあ)げ展(てん)」に並(なら)ぶ、日本に着いた船上を描(えが)いた作品(さくひん)。喜(よろこ)ぶ人の傍(かたわ)らに、うつむいて涙(なみだ)する人がいます。「家族全員(ぜんいん)が帰って初(はじ)めて戦争(せんそう)が終(お)わったと言えるのかもしれません」と佐貫(さぬき)さん。展示(てんじ)は9月24日まで。詳(くわ)しくは平和祈念(へいわきねん)展示資料館(しりょうかん)のホームページで。

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