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知るコレ!

西郷どん中部の偉人も縁

橋本左内(はしもとさない)と西郷隆盛(さいごうたかもり)の交流(こうりゅう)を解説(かいせつ)する角鹿尚計館長(つのがなおかづかんちょう)=福井(ふくい)市立郷土歴史博物館(きょうどれきしはくぶつかん)で

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 2018年のNHK(エヌエイチケー)の大河(たいが)ドラマが「西郷(せご)どん」に決(き)まりました。明治維新(めいじいしん)の英雄(えいゆう)、西郷隆盛(さいごうたかもり)(1827〜77年)が主人公(しゅじんこう)です。鹿児島県出身(かごしまけんしゅっしん)で、中部(ちゅうぶ)地方とはあまり縁(えん)がなさそう。でも「郷土(きょうど)の偉人(いじん)と隆盛とのかかわりを知ってほしい」と期待(きたい)する声があります。 (古池康司(こいけこうじ))

〔1〕 どんな人

 西郷隆盛(さいごうたかもり)が活躍(かつやく)した幕末(ばくまつ)は、二百五十年続(つづ)いた江戸幕府(えどばくふ)の力が弱まっていました。アメリカなど外国から船がやってきて、これまでの鎖国体制(さこくたいせい)を見直し、開国(かいこく)するよう迫(せま)ります。でも国内は藩(はん)という細(こま)かい単位(たんい)に分かれ、対応(たいおう)ができません。そこで力のある藩が手を組み、幕府中心の政治(せいじ)を変(か)えようと動(うご)きだします。

 隆盛は薩摩(さつま)藩(鹿児島県(かごしまけん))の下級武士(かきゅうぶし)の生まれですが、外国の事情(じじょう)に詳(くわ)しく、身分(みぶん)にとらわれず人材(じんざい)を起用(きよう)する藩主(はんしゅ)の島津斉彬(しまづなりあきら)の目に留(と)まります。最初(さいしょ)の大仕事(しごと)は、将軍跡継(しょうぐんあとつ)ぎ問題(もんだい)でした。病弱(びょうじゃく)で日本のピンチに対処(たいしょ)できそうにない当時の十三代(だい)将軍家定(いえさだ)の跡継ぎに、賢(かしこ)さで評判(ひょうばん)の高い徳川慶喜(とくがわよしのぶ)(後の十五代将軍)を推薦(すいせん)しようと、他(ほか)の藩などに協力(きょうりょく)を求(もと)め走り回ります。

 慶喜側(がわ)は対立(たいりつ)する一派(いっぱ)に敗(やぶ)れ、安政(あんせい)の大獄(たいごく)と呼(よ)ばれる大弾圧(だんあつ)を受(う)けます。隆盛も自殺(じさつ)を図(はか)りますが一命(いちめい)を取(と)り留めます。藩の内部(ないぶ)で対立して島流(しまなが)しになる危機(きき)を乗(の)り越(こ)え、部隊(ぶたい)を指揮(しき)して徳川の軍勢(ぐんぜい)を打(う)ち破(やぶ)り軍事でも活躍。明治政府(めいじせいふ)の誕生(たんじょう)に貢献(こうけん)しますが、後に政府と対立し、西南戦争(せいなんせんそう)で敗れて死(し)にます。

 大河(たいが)ドラマの原作、林真理子(はやしまりこ)さんの小説(しょうせつ)では、隆盛は飾(かざ)らない人柄(ひとがら)の好人物(こうじんぶつ)と描(えが)かれます。

〔2〕 橋本左内

 西郷隆盛(さいごうたかもり)の活躍(かつやく)の舞台(ぶたい)は鹿児島(かごしま)や東京(とうきょう)などが中心ですが、福井(ふくい)市立郷土歴史博物館館長(きょうどれきしはくぶつかんかんちょう)の角鹿尚計(つのがなおかづ)さん(56)は、福井藩士(はんし)の橋本左内(はしもとさない)とのかかわりに注目(ちゅうもく)しています。

 左内は「稚心(ちしん)を去(さ)る」(子ども心を捨(す)てる)「志(こころざし)を立つ」(目標(もくひょう)を立てる)など五つの生き方の指針(ししん)「啓発録(けいはつろく)」を十四歳(さい)の時に書いた秀才(しゅうさい)。ともに藩主(はんしゅ)の命(めい)を受(う)け、将軍跡継(しょうぐんあとつ)ぎ問題(もんだい)で力を合わせます。角鹿さんは「年齢(ねんれい)は隆盛が七つ上ですが立場は左内が上だったんですよ」と教えてくれました。

 左内が慶喜(よしのぶ)の優(すぐ)れている点を紹介(しょうかい)する文章(ぶんしょう)を書き、隆盛を通じて関係者(かんけいしゃ)に渡(わた)しました。二人の手紙で左内は「先生」と呼(よ)ばれ、左内が頭脳派(ずのうは)、隆盛が行動(こうどう)派と対照的(たいしょうてき)な関係です。隆盛は「この人にはかなわない」と高く評価(ひょうか)しました。

 ただ左内は、安政(あんせい)の大獄(たいごく)で、二十五歳で処刑(しょけい)されてしまいます。左内の死(し)を知った隆盛は「耐(た)えがたい時代(じだい)だ」と悲(かな)しみ嘆(なげ)きました。十八年後、西南戦争(せいなんせんそう)で亡(な)くなった時に隆盛は、左内の手紙を大切に持(も)っていたそうです。隆盛の思いの深(ふか)さがうかがわれます。

 「二人の心の交流(こうりゅう)がどう描(えが)かれるのかが楽しみ。左内をあまり早く死なせないで」と角鹿さん。大河(たいが)ドラマを機(き)に、全国の人に左内を知ってほしいと願(ねが)っています。

〔3〕 山岡鉄舟

 幕末(ばくまつ)のクライマックスの一つ「江戸無血開城(えどむけつかいじょう)」で西郷隆盛(さいごうたかもり)と相(あい)まみえる山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)に注目(ちゅうもく)するのが、岐阜県高山(ぎふけんたかやま)市の飛騨(ひだ)高山・山岡鉄舟研究会(けんきゅうかい)会長の水口武彦(みなくちたけひこ)さん(78)です。

 鉄舟の生まれは江戸ですが、父の転勤(てんきん)に合わせて九歳(さい)から十六歳まで高山で過(す)ごしました。身分(みぶん)の違(ちが)う子どもたちと一緒(いっしょ)に学び、後に剣(けん)と書の達人(たつじん)になる土台をつくりました。鉄舟が通ったお寺「宗猷寺(そうゆうじ)」には、「欲(ほ)しいなら持(も)って行っていいよ」という大人の冗談(じょうだん)を真(ま)に受(う)け、寺の鐘(かね)を取(と)り外そうとしたというエピソードが伝(つた)わります。水口さんは「いちずで誠実(せいじつ)な人間だったのでは」と話します。

 後に徳川(とくがわ)方の残(のこ)る江戸城(えどじょう)を攻(せ)めようと軍隊(ぐんたい)を率(ひき)いて駿府(すんぷ)(静岡(しずおか)市)までやってきた隆盛に、捨(す)て身(み)の覚悟(かくご)で会いに行き、初対面(しょたいめん)ながら戦争(せんそう)を避(さ)けるように頼(たの)みます。隆盛はその熱(あつ)い思いを受け止め、力ずくの攻撃(こうげき)には出ず、江戸の戦禍(せんか)を防(ふせ)ぐことにつながったといいます。

 「江戸を救(すく)う大仕事(しごと)の基礎(きそ)が高山で養(やしな)われたと思うと誇(ほこ)らしい」と水口さん。高山には宗猷寺に鉄舟の両親(りょうしん)の墓(はか)、旧家(きゅうか)に達筆(たっぴつ)の書などが残っています。「鉄舟と高山を知ってもらう機会(きかい)になれば」と期待(きたい)します。

 再来年(さらいねん)は明治維新(めいじいしん)から百五十年。左内(さない)や鉄舟が大河(たいが)ドラマでどう隆盛と絡(から)むのか、幕末を調(しら)べて想像(そうぞう)してもいいですね。

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