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試練のとき

おぼろタオル 加藤勘次社長(62) (上)

◆窮地を救った1本の糸

加藤勘次社長

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 柔らかな肌触りと高い吸水性で、一九二七(昭和二)年の発売から愛される「おぼろガーゼタオル」。片面はタオル地、もう片面はガーゼ地で織る製法は、「おぼろタオル」(津市上浜町)が開発した。業界で一目置かれる老舗の五代目社長に二〇〇五年、加藤勘次(62)は就任した。待ち受けていたのは「どん底の、何をしていいか分からない状況」だった。

 自社の倉庫に積み上がった在庫は四、五カ月分。百貨店などのタオル売り場には、安価な中国産やベトナム産がなだれ込んでいた。輸入率は八割に上り、かつて全国有数の産地とされた県内のメーカーも、倒産や廃業に追い込まれた。

 おぼろタオルの売り上げは、問屋からの受注生産が中心だった。品質の高さが百貨店の贈答品として好まれたが、バブル崩壊とともに消費は冷え込んだ。問屋からは「値を何とかしてくれないか」と価格の見直しを求められるようになった。

 質の高さにこだわり続け、自信もあった。が、「いいもんでも安くなければ買ってくれない」という矛盾が立ちはだかる。値下げをのむしかなかった。おぼろのブランドで勝負してきたつもりが、「いつの間にか、下請けみたいになっとった」。一九九一年に十二億円を超えていた売り上げは、いつしか四億円を下回っていた。

1908年創業時から品質にこだわった商品を作り続けるおぼろタオル=津市上浜町で

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 加藤は入社以来、人事や経理畑を歩み、会社が所有する駐車場の経営にも携わった。幸いにも安定した不動産収入は、本業の窮地を救ってくれた。だが、加藤にはそれが「延命措置」にしか思えなかった。「このまま生き延びたとしても、結局何もいいことあらへん」。倒産の危機は免れても、ものづくりの矜恃(きょうじ)は傷つけられたままだった。

 「三つの誇りを取り戻そう」。社長になった加藤は社員に呼び掛けた。商品に対してだけでなく、地域社会での評価、労働環境でも誇りを持てる企業を目指した。「でも、どうしたらいいのか。悩んどった」。転機は、一本の糸だった。

 糸を開発したのは、岐阜県安八町の浅野撚糸(ねんし)。東海三県の地銀の企業紹介事業で出会った。取引先の繊維業者が中国に拠点を移し、同じく苦境に立つ地方企業だった。

 糸は一度よりを掛けた後、逆方向によりを掛け直す特殊な加工をしていた。見た目はただの糸だが、タオルに織り込むと繊維の隙間が生まれ、つぼみが花開いたかのように膨らんだ。「びっくりするくらい軽く、ふっくらしていた」。吸水性も抜群で、毛羽(けば)落ちも少なかった。「おぼろは使い心地にこだわってきたメーカー。力を入れてやってみよう」。共同開発が始まった。

 ただ、この糸はくせものでもあった。伸び縮みがしやすく、当初は思い通りの仕上がりにはならなかった。一九〇八(明治四十一)年の創業から、製造の全工程を自社で一貫して行うおぼろタオル。底力が局面を切り開く。各工程の職人が工夫を凝らすことで、商品化にこぎつけることができた。「浅野撚糸さんが、ものづくりの自信を与えてくれた」。加藤は振り返る。

 二〇〇七年六月、その糸から新商品「エアーかおる」が誕生した。試行錯誤を重ね、試作品は優に三、四千枚に上っていた。

 (吉川翔大)

 =敬称略、次回(下)は28日掲載予定です

 <おぼろタオル> 1908(明治41)年、創業者森田庄三郎が、タオルにおぼろげな模様を描ける「朧染(おぼろぞめ)タオル製造法」の専売特許を取得し創業。27(昭和2)年には細い糸を使ったガーゼタオルの量産に日本で初めて成功する。分業化が一般的なタオル業界で自社一貫生産体制を守り、「おぼろ百年の極」や「伊勢古式着物文様」などオリジナル商品開発に力を入れる。従業員約60人。

 

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