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試練のとき

万協製薬 松浦信男社長(55) (下)

松浦信男さん

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 ふらりと訪ねてきた年上の知人の言葉に、耳を疑った。「万協製薬を続けるかどうか、棒を倒して決めたらどうですか」

 阪神大震災から一カ月後の一九九五年二月。社長の松浦信男は、大学時代の友人と二人で、被災した工場の後片付けに追われていた。

 二十人の社員には既に解雇を告げ、工場再開のめどもつかない。だが、医薬品を作る機械は修理すれば使えると分かった。慰問に来たその知人は、大阪の製薬会社のオーナーだった。からかわれていると感じた松浦は「賭けに勝ったら、あなたの会社の空きスペースでうちの薬を作らせてほしい」と訴えた。

 棒が右に倒れたら事業を続け、左なら潔く廃業する−。棒の上に手を置いた松浦は、迷うことなく右に倒した。知人が出した条件は、所有する大阪の製薬会社の社長職を引き受け、八億円の借金の連帯保証人になること。「万協製薬を倒産させられない」と、松浦は奇妙な取引に応じる。

 翌月。大阪に引っ越すため、神戸の旧本社に立ち寄った。既に社屋は取り壊され、残った敷石のかけらだけをリュックに突っ込んだ。ふと見上げた空は、今まで見たことのないほど青かった。

万協製薬の旧本社の敷石。松浦社長が神戸を去る際にリュックに詰めて持ち帰った=多気町仁田の万協製薬で

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 大阪の製薬会社の社長に就いた松浦だったが、製品表示に万協の名前を残すことにはこだわった。だが、「そんなのあんたのノスタルジーやろ」と、取引先の販売会社の社長から、冷たく断られた。悔しくて、言葉が出なかった。

 その生活も長くは続かない。父と知人との不和で、松浦は翌九六年三月、雇われの社長を解任される。大阪の会社を借りて薬を作ることはもうできなくなった。

 九カ月後の年末までに、新たな工場を造れば、医薬品製造の権利を返す−。松浦はまたも知人が出した条件に翻弄(ほんろう)されることになる。連日、車で工場予定地を探し回る中、多気町にふさわしい候補地があると知り、幸いにも競売で用地を取得できた。

 だが、県庁を訪れた際に担当者から、製薬の権利の所在をめぐり、大阪の知人から横やりが入っていると知らされた。用地を取得できても、紛争で行政の許可が下りなければ、努力は水の泡になる。目の前で号泣する松浦を見て、担当者は「こんな場所で泣く人はいない。君を信じるよ」と、工場稼働の道筋をつけてくれた。

 九七年一月末。再スタートを切った万協製薬の出荷場で、医薬品のクリームを詰めた段ボールがうずたかく積まれた。新たに集まった五人の社員を前に、松浦は胸を熱くして言った。「この日のことを忘れない。俺たちの技術を世界に売ろう」

 同社は製薬大手など、相手先のブランドで薬を作る受託製造に活路を見いだす。

 以前の取引先の少なさが危機に拍車を掛けたことを、阪神大震災で痛感したからだ。「相手に必要とされる会社になる」。自社ブランドにこだわって営業に人手を割くより、高品質の薬を作る技術力で勝負しようと考えた。松浦の読み通り、二〇一七年三月期の売り上げは二十年前の百倍に増えた。

 青と白を基調にした万協のカラー。それは、松浦が神戸を離れる時に見た青空の色だ。廃虚に立ち、絶望を希望に塗り替えた。

 =敬称略

 (池内琢)

 <万協製薬> 設立は1960年。本社は多気町仁田。国内製薬大手の軟こうなど、外用薬を扱う受託メーカー。従業員は169人(6月1日現在)。多気町で工場が稼働した1997年3月期に3700万円だった売上高は、2017年3月期には32億円に伸びた。

 

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