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試練のとき

万協製薬 松浦信男社長(55) (上)

松浦信男さん

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◆被災…無念の解雇通告

 肌に塗る薬用クリームなどを製造する「万協製薬」。創業の地の神戸市から二十一年前、多気町に本社を移した同社は、取引先の製薬会社のブランドで製品をつくる戦略で、業績を伸ばし続けている。三重に拠点を移したきっかけは未曽有の大震災。がれきの街からはい上がったのが、社長の松浦信男(55)だ。

 腹に響く地鳴りが、悪夢の始まりだった。一九九五(平成七)年一月十七日。午前五時四十六分、神戸市西区の自宅のベッドで、松浦は激しい揺れに動転していた。何とか散乱する家財をかき分け、隣の部屋で寝ていた妻と、十カ月の長女を連れ、いてつく駐車場にはい出た。

 乗り込んだ車のラジオは、震度7の阪神大震災の一報を伝えている。「会社は大丈夫か」。はやる気持ちを抑え、アクセルを踏み込んだ。

 万協製薬は六〇年、薬局を営んでいた父が同市長田区に創業した。社員二十人ほどの小さな会社。社長室長だった松浦は、海沿いの道をひた走った。フロントガラスに黒いすすが積もる。神戸の中心地から、巨大な二つの黒煙の柱が天を突くのが見えた。

 「爆撃を受けたみたいだ」。目を疑う光景に、松浦は妻子を車に残し、歩いて本社に向かう。長田の街は壊滅し、あちこちで火の手が上がる。倒壊した家の下敷きになった人の親族らが、ぼうぜんとたたずんでいた。

阪神大震災前の万協製薬。神戸市が創業の地だ=万協製薬提供

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 火事を避けながらたどりついた木造スレート造りの本社は、三階建ての一階部分がひしゃげていた。「もうダメか」。幸いにも社員に被害はなかったが、製薬用の機械が何台もあり、損害は想像以上だった。車に残した家族の安否が気に掛かる。タイヤの空気の抜けた自転車をこいで探し回り、翌日、自宅近くの避難所で妻子と再会できた。

 その数日後。万協製薬の駐車場に、二十人の社員のうち、十数人が集まった。被災した本社の中には、可燃性のアルコールをはじめ、薬づくりに必要な危険な薬品が散らばっていた。それらを取り除かなくては、業務は再開できない。

 「皆で片付けよう」。松浦はそう語り掛けた。「けがをしたら、一生面倒を見てくれるんですか。念書を書いてくださいよ」。長年、苦楽をともにしてきたベテラン社員の反応は予想外だった。「そんなことを言っている場合じゃないでしょう」。奮起をうながす松浦の言葉は、むなしく響くだけだった。万協の復興にと用意した大学ノートは、最初の一ページでペンが止まった。

社員と力を合わせ、廃虚から会社を立て直そうと松浦さんがつくった「万協再開ノート」=万協製薬提供

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 長年の取引先に支援を頼んでも断られた。社長だった父は「どうしたらいいか分からない」と、心が折れたまま。このままでは会社は倒産する。「万協を残したい」。父から社長職を継いだ松浦は、震災から二週間後の一月末、再び社員を呼び寄せた。電気はまだ復旧しておらず、日暮れ時の社内は薄暗い。

 「一度、会社を閉めます。退職金は払いますから」。重苦しい沈黙が包む。松浦は、社員の顔を一人ずつのぞき込んだ。誰もが虚脱し、ほうけたような顔をしていた。「社長としての最初の仕事が解雇の通告なんて」。脳裏には「絶望」の二文字が浮かんでいた。

 =敬称略

 (池内琢)

 <まつうら・のぶお> 1962年、神戸市生まれ。徳島文理大薬学部卒業。82年、万協製薬に入社。薬剤師。多気町商工会、同町観光協会の会長も歴任。40年前から集めた3万点超のフィギュアを展示する「万協フィギュア博物館」の館長でもある。

 

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